1871年3月1日、東京・京都・大阪の3箇所で近代郵便が始まった。
16ヶ月後、全国1,159局。取扱通数は初年57万通、翌年251万通、3年目には1,055万通に達した。
この制度を設計した男、前島密は、開業日にロンドンにいた。
Mission:飛脚は庶民のものではなかった
江戸時代、手紙を届ける手段は飛脚だった。
東京から大阪まで並便で銀一匁。現在の価値で約150円と聞くと安く感じるが、届くまでに30日かかることもあった。急ぐなら仕立便で金四両。約4万円。さらに急ぐなら三日半限で金十一両。約11万円。手紙1通に11万円。庶民が使える制度ではない。
飛脚は武士と商人のための通信手段だった。農民や町人が手紙を出すという発想自体が、ほとんど存在しなかった。
1862年、長崎。アメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズが、前島密に1通の封書を見せた。切手が貼ってある。ウィリアムズは言った。「通信は国家にとって、血液が人体にとって果たすのと同じ役割を持つ。通信が血液で、駅逓が血管だ」。
前島はこのとき27歳。切手というものを初めて見た。
8年後の1870年、前島は駅逓権正(郵便行政の次官)に就任する。ある日、政府の会計書類を見ていて気づいた。飛脚業者への公用便の支払いが莫大な額に上っている。この金があれば、全く新しい通信制度が作れる。
前島は徹夜で草案を書き、20日間かけて詳細な建議書を仕上げた。内容はこうだ。「国内に広くだれでも自由に利用できる通信制度を作る。まず試験的に東海道筋に、東京から京都まで72時間、大阪まで78時間で毎日往復する郵便制度を実施したい」。
渋沢栄一が掛長を務める改正掛会議で承認された。
Design:イギリスで学び、日本で変換する
建議が通った翌月、前島はイギリスに発った。1870年7月。公務は鉄道起債問題の解決だったが、合間を縫って郵便制度を学んだ。
イギリスでは30年前にRowland Hillが郵便改革を成し遂げていた。1840年のPenny Post。距離に関係なく全国一律1ペニーで手紙が届く。料金前払い、切手を貼る。この仕組みが郵便の利用を爆発的に増やしていた。
前島が学んだのは制度の形だけではない。均一料金で過疎地にも届けるなら、民間では採算が合わない。国家運営以外に選択肢はない。これが設計の核心になった。
だが、イギリスの仕組みをそのまま日本に持ち込むわけにはいかない。イギリスには鉄道網がある。日本にはない。イギリスには識字率の高い市民社会がある。日本は封建制を脱したばかりだ。
前島が選んだのは、ハイブリッドだった。理念と制度設計は西洋から取り入れる。物理的な配送網は、江戸時代の宿駅制度をそのまま流用する。東海道五十三次の宿場町には、すでに人と荷物をリレーするインフラが存在していた。新しく作る必要がない。
もう一つ、決定的な設計判断がある。郵便局の建物を建てない。
全国に専用の局舎を建設していたら、10年かかっても足りない。前島は布告にこう書いた。「当分之内其自宅ヲ以郵便局ト相称可申事」。当面は自宅を郵便局と称せ。
地元の名主や地主に郵便取扱人を委嘱する。条件は、勤勉であること、規則を熟読していること、品行方正であること、そして資産があること。報酬はわずかな手当と準官吏の身分。経済的には自分の家業で食べていける人間でなければ務まらない。実質的にはボランティアに近い。
このモデルが、速度を生んだ。局舎の建設を待つ必要がない。適任者を見つけ、その自宅を指定すれば、翌日から郵便局になる。
切手も設計した。竜文切手。48文、100文、200文、500文の4種類。当初のデザインは梅の花だったが、偽造防止のため複雑な竜の図案に変更された。松田緑山が彫刻し、開業日までに86万枚を刷り上げた。19.5mm四方。日本最小の切手でもある。
Execution:設計者不在の開業
1871年3月1日(旧暦)、郵便が始まった。
前島密はロンドンにいた。
開業を取り仕切ったのは杉浦譲。前島の構想を理解し、実務に落とし込んだ副官だ。東海道沿いの62の宿駅に郵便取扱所を設置し、東京・京都・大阪に郵便役所を置いた。3つの都市と62の中継点。これが初日の布陣だった。
配達は脚夫が担った。郵便行李と呼ばれる荷物を背負い、宿駅間をリレーする。1人が背負う重さは約11kg。走る距離は約20km。所要時間は2時間。次の宿駅で次の脚夫に引き継ぐ。人間の足で、東京から大阪まで78時間。
書状集め箱と呼ばれる木製のポストが設置された。東京に12箇所、京都に5箇所、大阪に8箇所。各宿駅には上りと下りの2箱。箱には太政官布告と「書状を出す人の心得」が貼られた。手紙の出し方を説明する必要があった。ほとんどの人が、郵便というものを知らなかったからだ。
前島が帰国したのは1871年9月25日。14ヶ月の渡航を終えて横浜に降り立った。帰国数日後、駅逓頭に就任。郵便行政のトップになった。
ここから全国展開が始まる。
1872年7月1日、全国一斉に1,000局以上が開局した。北海道北部と南西諸島を除く日本全土をカバーする郵便網が、一日で出現した。開業から16ヶ月。3局が1,159局になった。
この速度を可能にしたのが、局舎を建てない設計だ。全国の名主や地主の自宅が、一夜にして郵便局に変わった。建設工事はゼロ。必要だったのは、適任者の選定と、規則の伝達と、書状集め箱の設置だけだった。
取扱通数の推移がこの展開の成功を物語る。初年57万通。翌年251万通。3年目1,055万通。前島が東海道筋で見込んでいた1日100通という予測を大幅に超えた。手紙を出したい人は、最初からそこにいた。手段がなかっただけだ。
1873年4月、全国均一料金制を導入。手紙1通2銭。距離に関係なく、北海道から九州まで同じ値段で届く。飛脚の並便が150円相当だった時代に、2銭。翌月、飛脚による書状運送を正式に禁止した。
People:月に3日しか布団で寝なかった男
前島密。1835年、越後国(新潟県)生まれ。建議書を書いたとき35歳。
1877年、西南戦争の時期。大久保利通の代理として内務を切り盛りしていた前島は、1ヶ月のうち布団で眠ったのが3日だけだったと記している。残りの27日は机に突っ伏して仮眠を取った。郵便制度の創設期も、似たような日々だったはずだ。
前島が相手にしなければならなかったのは、物流の問題だけではない。人の問題があった。
飛脚業者は当然反発した。数百年続いた生業を、政府が奪おうとしている。前島は彼らを潰す道を選ばなかった。説得した。書状の運送は政府が引き取る。だが貨物輸送はまだ民間の仕事だ。飛脚のネットワークと脚力を、荷物の運送に転換できないか。
1872年、飛脚業者たちは陸運元会社を設立した。これが日本通運の前身になる。郵便制度に職を奪われた飛脚たちが、物流企業として生き残った。破壊ではなく変換。前島がそれを設計した。
政府内部にも敵がいた。駅逓の先任者だった浜口成則は、郵便の国営化に反対した。前島は大隈重信を味方につけ、浜口を更迭し、自ら駅逓頭の座に就いた。政治力がなければ、制度設計だけでは何も動かない。
もう一つ、見過ごせない事実がある。1873年、郵便脚夫に短銃が支給された。山賊が郵便物を狙って脚夫を襲撃する事件が相次いだためだ。手紙を届けるために、拳銃を持って走る。明治初期の郵便はそういう仕事だった。
Legacy:言葉が残った
前島密が定めた言葉がある。郵便。切手。葉書。
155年が経った。届け方は脚夫からトラックに変わり、紙の手紙は電子メールに押されている。だが「郵便」「切手」「葉書」という言葉は、前島が定めたまま残っている。制度は変わった。言葉は変わらなかった。
郵便局の数は、1871年の179局から1881年には5,099局に達した。10年で28倍。1877年には万国郵便連合に加盟し、国際郵便が始まった。アジアで最も早い近代郵便制度の一つになった。
この制度は創業以来、赤字が続いた。採算を度外視して過疎地にも届ける。それが前島の設計思想であり、政府はその赤字を政策として受け入れた。
地元名士の自宅を郵便局にするモデルは、特定郵便局という形で郵政民営化まで約135年続いた。前島が「当分之内」と書いた暫定措置が、日本の郵便インフラの基本構造になった。暫定は恒久になり、恒久は伝統になった。
前島密の肖像は1円切手に描かれている。現在も発行されている。
学び
全国に1,000局を16ヶ月で開設できた理由は、局舎を建てなかったからだ。名主の自宅を指定し、書状集め箱を置き、規則を渡す。それだけで郵便局が生まれた。専用インフラの建設を待っていたら、5年でも足りなかったかもしれない。「建てない」という設計判断が、速度を生んだ。
前島がイギリスにいる間に、制度は始動した。杉浦譲が前島の設計を理解し、東海道の62局を立ち上げた。設計思想が共有されていれば、設計者がいなくても実行できる。サグラダ・ファミリアでガウディの設計原則が144年間継承されたのと、構造は同じだ。
飛脚業者を潰さなかった。書状運送は取り上げたが、貨物輸送への転換を促し、陸運元会社を作らせた。日本通運という形で、飛脚のネットワークは今も動いている。既存のプレイヤーを破壊するのではなく、別の役割に変換する。前島はそれを「競合排除」ではなく「機能移転」として設計した。