Execution Atlas
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タコマナローズ橋 — 予算内・工期内で完成した橋は、4ヶ月で海に落ちた

主径間853メートル。桁高2.4メートル。桁高と径間の比、1:350。幅と径間の比、72:1。

ゴールデンゲートブリッジの桁高/径間比は1:168、幅/径間比は47:1。タコマナローズ橋はその2倍薄く、1.5倍狭い。当時アメリカで3番目に長い吊り橋でありながら、歴史上最も薄く、最も狭かった。

予算640万ドル。工期19ヶ月。どちらも計画通り。

供用期間、4ヶ月と7日。

Mission:50年越しのフェリー代替

ワシントン州タコマと対岸のキトサップ半島を結ぶフェリー航路。ピュージェット湾のタコマ海峡は幅約1.6km、水深約46メートル。1889年にノーザン・パシフィック鉄道が架橋を提案して以来、半世紀越しの構想だった。

1937年、ワシントン州議会が有料橋梁局を設立し、架橋調査に5,000ドルを計上する。州の橋梁技師クラーク・エルドリッジが設計を担当した。25フィート深のオープントラスで桁を支える構造。風は桁を通り抜ける。推定建設費1,100万ドル。

州は連邦政府の公共事業局(PWA)に資金を申請した。PWAの回答は2つの条件付き。建設費を削ること。外部の著名な吊り橋コンサルタントを雇うこと。

ニューヨークからレオン・モイセイフが呼ばれた。

Design:撓み理論の極限

モイセイフは1872年、ラトビアのリガに生まれた。ユダヤ人家庭。政治活動を理由に19歳で渡米し、コロンビア大学で土木工学を学ぶ。アメリカの自由を愛し、娘の一人にLiberty(自由)と名づけた。

30年間、アメリカの主要な吊り橋のほぼすべてに関わっている。マンハッタン橋(1909年)で名声を確立し、ベンジャミン・フランクリン橋(1926年)、ゴールデンゲートブリッジ(1937年)と続く。武器は撓み理論だった。

吊り橋のケーブルは荷重を受けてたわむ。たわむことで力が分散し、桁に伝わる荷重が減る。桁は薄く、軽くできる。橋が長くなるほどケーブルの分担が増え、桁はさらに薄くできる。理論的には。

モイセイフはエルドリッジの設計を見て言った。桁の高さを25フィートから8フィートに落とせる。トラスではなくソリッドなプレートガーダーでいい。建設費は640万ドルまで下がる。

項目エルドリッジ案モイセイフ案
桁構造25ft深オープントラス8ft深ソリッドプレートガーダー
風の扱いトラスを通過プレートに衝突
推定コスト1,100万ドル640万ドル

42%の削減。エルドリッジの部署は”fundamentally unsound”(根本的に不健全)と抗議した。25フィートの開放的なトラスなら風は桁を通り抜ける。8フィートのソリッドな板なら風は桁にぶつかる。

モイセイフの名声と42%のコスト削減の前に、抗議は退けられた。PWA助成金288万ドルとRFC融資352万ドル、合計640万ドルが動き出す。設計料は13万9,868ドル。建設費の2.5%。

モイセイフはこの橋を「世界で最も美しい橋」と呼んだ。

Execution:ギャロッピング・ガーティ

1938年11月23日着工。主契約者パシフィック・ブリッジ社、鉄骨上部構造ベスレヘム・スチール社。タコマ海峡の水深約46メートル、潮流は時速13キロ以上で1日4回襲来する。

19ヶ月で完成。予算640万ドルの範囲内。プロジェクト管理の成績表には「予算内・工期内」と書ける数字が並んだ。

ただし、建設中から異変はあった。

1940年5月、路面のコンクリート打設が進む頃、桁が上下に波打ち始めた。振幅は数フィート。作業員たちはレモンを噛みながら作業を続けた。船酔い対策。全米の橋梁現場を渡り歩いてきたベテラン作業員「ブーマー」の誰かが、この橋にあだ名をつけた。「ギャロッピング・ガーティ」。暴れ馬のガーティ。

6月27日、大工のフレッド・ワイルドが12フィートの高さから転落して死亡。建設中の唯一の犠牲者。翌日、ペインターが橋から落ちたが生還している。

7月1日、開通。橋の揺れは観光資源になった。スリルを求めるドライバーがわざわざ渡りに来る。対岸に見えていた車が波の谷に消え、また現れる。近くの銀行は「この銀行は橋と同じくらい安全です」という看板を出した。

ワシントン大学のファーカーソン教授は開通前から揺れを懸念していた。1:200スケールの模型で風洞実験を行い、桁に穴を開けて風を通す改修を提案した。橋に恒久的な損傷を与えるとして、却下された。

11月1日、タイダウンケーブルが強風で破断。修理された。

11月7日が来た。

People:11月7日の4時間

早朝、南西からの風がタコマ海峡を吹き抜ける。板状の桁を横から叩く。

午前7時30分。風速38マイル毎時(61km/h)。橋は2〜5フィートの上下振動を始めた。いつものガーティの動き。

午前8時30分。クラーク・エルドリッジが橋を車で渡った。いつもの波打ちより穏やかだと判断し、1マイル先のオフィスに戻った。

午前9時30分。風速が42マイル毎時(68km/h)に上がる。

午前9時45分。ファーカーソン教授がシアトルから到着した。1時間のドライブ。カメラとストップウォッチを持って。

午前10時頃。上下の波打ちが、突然、捻れに変わった。

路面が左右交互にめくれ上がる。ファーカーソンが見たことのない動き。街灯柱が6本以上折れた。路面の傾斜は最大で約35度。振幅は大きくなり続けた。

タコマのカメラショップを経営するバーニー・エリオットとハービン・モンローが、16mmのBell & Howellカメラとコダクロームフィルムを持って駆けつけた。2人は州から建設記録の撮影を委託されていた。エリオットは橋の中央から、モンローは左側から撮影を始めた。

タコマ・ニューズ・トリビューン紙のニュース編集者レナード・コーツワースの車が、主径間の中央付近で動けなくなっていた。娘の犬タビーが後部座席にいた。コーツワースは路面を這って脱出した。

ファーカーソン教授が犬を救いに向かった。捻れる路面のノーダルライン、回転しない中心線の上を歩いて車に近づいた。ドアを開けた。恐怖に震えるタビーは教授の指に噛みついた。

救出は失敗した。

午前10時30分。最初の路面パネルが195フィート下の海峡に落下。

午前11時02分。主径間の600フィート区間が崩落。

午前11時10分。すべてが終わった。

ファーカーソンは最後に橋を降りた人物だった。タイにトレンチコート、パイプを手にしたまま料金所に戻ってきた。手元のストップウォッチには最後の振動データが刻まれていた。周波数12サイクル/分、周期5秒。

コーツワースは血だらけの両手ではタイプライターを打てず、記事を口述した。「最も恐ろしいのは、数時間以内に娘に犬が死んだと伝えなければならないことだ」。車と犬の補償として814ドル40セントを受け取った。

エリオットとモンローのフィルムはパラマウント・ピクチャーズによって35mm白黒に複製され、全米の映画館で上映された。16fpsで撮影された映像が24fpsで再生されたため、何十年もの工学生が実際より50%速い映像で崩壊メカニズムを分析することになる。1998年、米国議会図書館のNational Film Registryに永久保存。JFK暗殺のザプルーダーフィルムと並ぶ記録映像と評されている。

Legacy:風洞の中に橋を入れる

崩壊の調査委員会が組織された。ジョージ・ワシントン橋の設計者オスマー・アマン、カリフォルニア工科大学の空気力学者テオドール・フォン・カルマン、グレン・ウッドラフ。

委員会は原因を確定しなかった。だが後の研究で明らかになったのは、この橋が「共振」で壊れたのではないという事実だった。風の周期と橋の固有振動数が一致したのではない。橋自身が風からエネルギーを汲み上げ続ける空力弾性フラッター。板状の桁が航空機の翼と同じように揚力を生み、傾くと風の流れが変わり、さらに傾く。負の減衰。自己強化ループ。

1930年代、航空工学者たちは橋梁への風の空力的効果について論文を発表していた。橋の模型を風洞で試験すべきだと。橋梁工学界はそれを読まなかった。二つの分野は別の世界にいた。

後継橋の設計を率いたチャールズ・E・アンドリューは、ファーカーソン教授に風洞試験を依頼した。8万8,000ドル以上を投じて1:50スケールモデルを製作し、風を様々な角度からぶつけた。路面にオープングレーティング(鋼格子)のスロットを設け、桁をオープントラスに変更したモデルは、捻れ振動をほぼ完全に消した。

新しい橋の桁は33フィート深のオープントラス。旧橋の8フィート板桁の4倍以上。塔は58フィート高く、21フィート幅広。ケーブル直径は17.5インチから20.25インチに。風は桁を通り抜ける。建設期間は29ヶ月、旧橋の19ヶ月より10ヶ月長い。あだ名は「スターディ・ガーディ」。頑丈なガーティ。1950年10月14日、開通。

エルドリッジが最初に描いた「堅実で高価な設計」に、ほぼ回帰した。

崩壊の余波は世界中に広がった。ブロンクス=ホワイトストーン橋にトラスが追加され、ゴールデンゲートブリッジの補剛トラスが強化された。すべての長大吊り橋で、風洞試験が設計プロセスに組み込まれた。

モイセイフは1943年9月3日に死去。71歳。1935年に心臓発作を起こしており、健康は崩壊前から悪化していた。息子は橋の崩壊が父の死を早めたと証言している。1947年、ASCEは彼の名を冠した賞を創設した。Moisseiff Award。構造設計の優秀論文に贈られる。毎年。

エルドリッジは1941年末、グアムで海軍勤務中に日本軍に捕縛された。3年9ヶ月の捕虜生活。帰還後、1950年に開通した後継橋の設計が「エルドリッジの当初案に近い」と評価されるのを見届けた。1990年没。

旧橋の残骸は海底に沈んだまま世界最大級の人工リーフとなり、国家歴史登録財に登録されている。

学び

エルドリッジの設計は1,100万ドル。モイセイフの設計は640万ドル。42%の削減。コストレビューでコンサルタントが代替案を出し、安い方が採用された。組織としては正常な意思決定だ。

ただし、エルドリッジが25フィートのトラスで確保していたものを、モイセイフは8フィートの板で置き換えた。風を通す構造が、風を受け止める構造になった。削減されたのは鉄骨の量ではなく、風に対する安全余裕だった。何を削ったかは見えても、何が削られたかは見えにくい。

撓み理論は正しかった。静的荷重に対しては。風との動的な相互作用は理論の射程外にあった。航空工学者は1930年代から橋梁への空力効果を論じていたが、橋梁工学者はそれを読まなかった。理論の正しさではなく、理論がカバーしていない領域にリスクがある。分野の境界が盲点を作る。

エルドリッジの部署は「根本的に不健全」と指摘した。建設中に揺れが出た。ファーカーソンは改修を提案した。3つの警告。3つとも組織の中で処理され、橋は予定通り開通した。警告を発した人間はいた。警告を聞くべき理由を説明できる理論がなかった。

640万ドル。19ヶ月。予算内。工期内。すべての判断は、当時の知識体系の中では合理的だった。

合理的な判断の連鎖が、4ヶ月後に橋を海に落とすことがある。

出典・参考資料

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