主径間853m。1940年7月1日に開通し、1940年11月7日に崩壊した。4ヶ月と7日。吊り橋の歴史上、最も短命な構造物。
人は死んでいない。犬が1匹、車の中に取り残されて死んだ。名前はTubby。
Mission:ワシントン州を繋ぐ
ピュージェット湾を渡るフェリーに代わる陸路が必要だった。タコマ海峡の幅は約1.6km。ここに橋を架ける。
当初の見積もりは1,100万ドル。連邦政府が出した条件は700万ドル。36%の削減。
レオン・モイセイフが設計を引き受けた。撓み理論の第一人者。風に対して橋を剛にするのではなく、柔軟にたわませることで力を逃がす。ゴールデンゲートブリッジの設計にも関わった人物。
700万ドルの予算に収めるため、モイセイフは設計を極限まで絞った。桁の高さを2.4mまで薄くした。同規模の吊り橋の3分の1。板状のソリッドな桁。トラス構造ではない。
Design:撓み理論の賭け
モイセイフの撓み理論には前提がある。橋は風を受けたとき、たわんで力を分散させる。バネのように戻る。荷重が均一に分散されるから、桁を薄く、軽くできる。
理論は正しかった。上下方向の静的な力に対しては。
問題は風との相互作用にあった。ソリッドな板状桁は、航空機の翼と同じ断面形状を持つ。風が桁の上面と下面で異なる速度で流れると、揚力が生まれる。桁が傾くと揚力の方向が変わり、反対側に押し戻される。押し戻された桁がまた傾く。
風がエネルギーを供給し続ける限り、この振動は止まらない。外部の周期的な力で揺れる共振ではない。橋自身が風からエネルギーを汲み上げ続ける自励振動。空力弾性フラッター。
35mph以上の持続風が吹けば、この橋は必ず不安定化する。
Execution:ギャロッピング・ガーティ
建設中から揺れていた。
作業員たちは橋が上下に波打つのを日常的に目撃した。開通前から「ギャロッピング・ガーティ」のあだ名がついた。揺れる橋を渡るスリルを楽しむドライバーもいた。
1940年11月7日、風速42mph。午前7時頃、橋は上下の波打ちから捻れ振動に移行した。路面が左右交互にめくれ上がる動き。振幅は時間とともに大きくなった。指数関数的に。
午前10時頃、中央径間のコンクリート路面が剥がれ落ち始めた。午前11時、主径間が崩落。600フィートの桁が海峡に落ちた。
この瞬間がカラー16mmフィルムに記録されている。コダクローム。路面が45度以上傾き、鋼材が引きちぎられる映像。1998年、米国議会図書館のNational Film Registryに永久保存された。
People:モイセイフの後に残ったもの
モイセイフは崩壊後、専門家としての信用を失った。
彼の撓み理論は、風の空力的効果を考慮していなかった。静的な荷重分散の理論を、動的な流体力学の問題に適用した。理論の適用範囲を超えていた。
ただし、崩壊前の時点で空力弾性フラッターを予測できた工学者はいなかった。橋梁工学と航空工学は別の分野だった。板状の桁が翼になるという発想は、崩壊によって初めて生まれた。
建設中の揺れは報告されていた。警告はあった。だが、揺れの原因を正しく診断できる理論的枠組みが、当時の橋梁工学には存在しなかった。
Legacy:風洞の中に橋を入れる
後継のタコマナローズ橋は1950年に開通した。
世界で初めて風洞試験を経て設計された橋梁。初の油圧ダンパー搭載。トラス構造の開放的な桁。風が通り抜ける設計に変わった。風を受け流すのではなく、風を通す。
橋梁工学にとってのパラダイム転換。風洞テストが設計プロセスに義務化された。撓み理論は放棄された。すべての長大吊り橋が空力特性を検証してから建設されるようになった。
タコマナローズ橋の崩壊映像は、世界中の工学教育で必須教材になった。構造力学の講義で流れないことがない。
学び
36%の予算削減要求があった。設計者はそれに応えた。桁を薄くし、トラスをやめ、板状にした。
予算制約に応えること自体は設計者の仕事だ。問題は、削った結果として生じるリスクを評価する理論的枠組みが存在しなかったこと。モイセイフは知らない領域で判断を下していた。知らないことを知らないまま。
この橋の崩壊が教えたのは、理論の限界は理論の内側からは見えないということ。橋梁工学が航空工学の知見を取り込んで初めて、崩壊の原因が説明できた。分野の外にある知識が、分野の内側の盲点を照らした。
予算を削れるかと聞かれて、削れると答えた。建設中に揺れが報告されても、理論的に問題ないと判断した。すべての判断は、当時の知識体系の中では合理的だった。
合理的な判断の連鎖が、橋を落とすことがある。