高さ333m。鋼材4,000トン。工期543日。設計図1万枚。延べ219,335人。
エッフェル塔は312mで7,300トン。東京タワーは21m高く、鋼材は半分だった。コンピュータはなかった。大型クレーンもなかった。安全帯すらなかった。1958年、日本の鳶職人たちが素手でそれを組み上げた。
Mission:鉄塔が乱立する街
1953年、NHKがテレビ放送を始めた。翌年には日本テレビ、ラジオ東京(現TBS)が続いた。各局が独自の電波塔を建て始め、東京の空に鉄塔が乱立し始めた。それはちょうど、誰もが勝手に井戸を掘り始めた村のようなものだった。
郵政省電波監理局長の浜田成徳はこの状態を問題視した。高さ177m程度の電波塔では半径70kmしか届かない。関東一円をカバーするには、はるかに高い塔がいる。それを各局がバラバラに建てれば、都市景観は崩壊する。
総合電波塔。1本の塔にすべてのテレビ局の電波を集約する。そういう構想が静かに動き出した。
この構想を国会経由で察知したのが、産経新聞社社長で参議院議員の前田久吉だった。「大阪の新聞王」と呼ばれた前田は、鹿内信隆とともに財界の支援を取りつけ、1957年5月に日本電波塔株式会社を設立する。
前田は一つだけ条件をつけた。「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない」。世界一でなければ建てない。そういう人だった。
Design:333mの根拠
電波工学的には、東京全域をカバーするために380mの高さが必要だと推定されていた。だが380mではアンテナの揺れが大きすぎる。地震と台風の国で、揺れるアンテナから安定した電波は出せない。それは物理法則の問題であって、根性の問題ではなかった。
設計を任されたのは内藤多仲、72歳。「塔博士」の異名を持ち、名古屋テレビ塔、大阪の通天閣(二代目)など約70基の鉄塔を手がけてきた。日本の塔設計の第一人者だった。前田からの依頼に「鉄塔造りは、私に課せられた宿縁」と応じている。宿縁。72歳の構造工学者がそういう言葉を使った。
内藤は構造計算を繰り返し、333mに着地した。エッフェル塔の312mを21m上回る。当時の自立式鉄塔として世界最高。
設計上の制約は重かった。関東大震災クラスの地震に耐え、風速90m/sに耐える。この条件を満たしながら、エッフェル塔の半分の鋼材で建てなければならない。部材を三角形に組み上げるトラス構造で軽量化と強度を両立させた。
構造計算に3ヶ月。設計図は1万枚を超えた。すべて手計算だった。最終チェックは熱海にある坪内逍遥の旧居「双柿舎」で行われた。早稲田大学が管理するその建物に3日間缶詰になり、72歳の構造工学者は数字の海を泳ぎ続けた。
日建設計との共同設計。施工は竹中工務店。塔体加工は新三菱重工と松尾橋梁。鉄塔建方は宮地建設工業。内藤と竹中工務店と宮地建設工業は、名古屋テレビ塔でも一緒に仕事をしている。初めて組むチームではなかった。そのことの意味は、あとで書く。
Execution:800℃のキャッチボール
1957年6月29日、着工。計画工期は15ヶ月。1959年からテレビ放送のチャンネル増加が決まっており、遅延は許されなかった。
実際には543日かかった。約18ヶ月。塔体の構造完成(333m到達)は1958年10月14日で、着工から約15.5ヶ月。計画にほぼ収まっている。遅れたのはアンテナだった。台風シーズンと工期が重なり、当初は塔体内部を通して吊り上げる予定だったアンテナを、外側から吊り上げる方式に変更した。最終的な竣工は1958年12月23日。設計が未完のまま着工し、設計図の完成は着工後の7月15日。走りながら描いた図面で建てた塔だった。
常時400人以上が朝6時から夕方6時までフル稼働した。大型クレーンはない。ウインチで人力で鉄骨を引き上げ、高さ200mを超える場所で、幅30cmの鉄骨の上に立って作業する。手すりもネットもない。風が吹けば鉄骨は揺れた。人間も揺れた。
鉄骨同士をつなぐリベットは、800℃に熱して柔らかくしたものを下から上の職人に手で投げ渡す。上の職人はバケツで受け取り、鉄柱に打ち込む。800℃の鉄の塊を、地上200mで、手で投げて、手で受ける。 それが毎日繰り返された。
鳶職人たちにとって、このタワーは特別な現場だった。高さが上がるにつれて東京の街が足元に広がっていく。関東平野の向こうに富士山が見える。普通の現場では絶対に見られない景色が、毎日変わっていった。鳶職人の通常の日給は500円だったが、タワー工事では750円。それでも金の問題だけではなく、「世界一の塔を建てている」という事実が現場の空気を作っていた。
塔が高くなるほど、地上から見上げる人が増えた。昼休みに芝公園に弁当を広げて工事を見物する人々。「頑張れ」と声をかけてくる子供たち。職人たちは見られていることを知っていた。高さ200mの鉄骨の上で煙草を吸いながら、自分たちが街の風景を変えていることを実感していた。
鋼材には朝鮮戦争後に払い下げられたアメリカ軍戦車のスクラップが使われた。戦車の装甲は良質な鉄で、東京タワーの強度を支える素材になった。戦争の残骸が、平和のシンボルの骨格に変わった。世界はときどき、そういう奇妙な変換を行う。
1958年6月30日、鳶職人1名が強風に煽られて高さ61mから転落し、亡くなっている。「ケガと弁当は自分持ち」。当時の鳶職人の世界で使われていた言葉だ。543日の工期で犠牲者は1名。当時の大規模建設としては異例の少なさだった。それでも、ゼロではなかった。
People:72歳、31歳、25歳
このプロジェクトには世代の構造がある。
設計者の内藤多仲、72歳。約70基の鉄塔を設計してきた経験の集大成。「塔博士」の最後の大仕事になった。1万枚の図面を3ヶ月で仕上げるスピードは、50年の蓄積がなければ出ない。
施工管理の竹山正明、31歳。鉄塔建方を担当した宮地建設工業の現場指揮官。NHK松山放送局の電波塔建設で評価されていた。「何があっても動じない、冷静に対処できる人」と周囲は語る。世界一の鉄塔の現場を31歳に任せる判断があり、それに応える人間がいた。
鳶の若頭、桐生五郎、25歳。現場の鳶職人を束ねる最前線のリーダー。高さ200mの鉄骨の上で60人の鳶を統率した。
72歳は設計判断。31歳はプロジェクト管理。25歳は現場の実行。それぞれが、その役割に最も適した年齢で配置されている。経験が必要な領域に経験を。体力と度胸が必要な領域に若さを。
桐生五郎は、タワー建設中に見合いをしている。完成翌日の12月24日に結婚式を挙げた。世界一の鉄塔を建てた25歳が、翌日に結婚する。なんというか、人生にはそういう密度の時期がある。
Legacy:伊勢湾台風が証明したもの
1959年、完成翌年。伊勢湾台風が上陸した。死者・行方不明者5,098人。気象災害史上最悪の台風。東京タワーはびくともしなかった。
内藤が設計した風速90m/sの耐風性能。紙の上の数字が、現実に証明された瞬間だった。3日間缶詰で検算した構造計算は正しかった。72歳の手計算は、台風に勝った。
東京タワーは54年間、東京の電波を支え続けた。2012年、東京スカイツリーが開業し、デジタル放送の主電波塔の役割はそちらに移った。東京タワーは予備電波塔になった。
2013年、国の登録有形文化財。電波塔としての役割は後退したが、年間250万人が訪れる観光名所として立ち続けている。役割が変わっても、塔は残る。
前田久吉が設立した日本電波塔株式会社は、産経新聞グループから切り離され、前田家の同族企業として経営が続いた。3代目社長の時代にゴルフ場開発の失敗で100億円の負債を抱え、東京タワーが担保に取られる危機もあった。建設のプロジェクトが成功しても、経営のプロジェクトが常に成功するわけではない。それはまったく別の種類の困難さだ。
学び
内藤、竹中工務店、宮地建設工業。このチームは名古屋テレビ塔で一度組んでいる。
前例のない規模の鉄塔を543日で建てられた理由の一つは、初めてのチームではなかったことだ。技術力だけではプロジェクトは回らない。お互いの仕事の仕方を知っている人間同士が組むことで、コミュニケーションコストが圧縮される。信頼とは、一緒に何かを作ったことがあるという事実のことだ。
朝鮮戦争の戦車が鋼材になった。制約をそのまま受け入れるのではなく、制約を資源に変換する発想が、このプロジェクトには何度も現れる。鋼材が足りない、だから戦車を溶かす。クレーンがない、だから人力で投げる。制約は、見方を変えれば材料になる。
72歳の設計者と31歳の現場監督と25歳の鳶の若頭。年齢だけを見ると不安になる配置だが、それぞれの役割に必要な能力から逆算すれば合理的だ。全員が40代のベテランである必要はない。何に経験が必要で、何に若さが必要かを見極める人事が、プロジェクトの構造を作る。
出典・参考資料
- 内藤多仲『塔 — 内藤多仲と三塔物語』(新潮社)
- 東京タワー公式サイト「東京タワーについて」(https://www.tokyotower.co.jp/about/)
- NHKアーカイブス「東京タワー建設記録」
- 鈴木晶子「東京タワーの建設フロー、PM視点でみてヤバすぎたので解説」note, 2018 (https://note.com/shokosuzuki/n/n5a9a44d6f067)
- 気象庁「伊勢湾台風」災害記録
- 文化庁 国指定文化財等データベース「東京タワー」