Execution Atlas
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アポロ計画 — 方法を知らないまま月を目指した8年間

258億ドル。40万人。月までの距離38万km、片道3日。

1961年5月25日、ケネディ大統領が議会で宣言した。“I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the moon and returning him safely to the earth.” この時点でNASAには月に行くための方法も、ロケットも、宇宙船も存在しなかった。

8年2ヶ月後の1969年7月20日、アポロ11号が月面に着陸する。残燃料25秒。

Mission

1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功した。108分の軌道飛行。

5月5日、アラン・シェパードが米国初の宇宙飛行を行う。弾道飛行15分。

5月25日、ケネディが議会で月面着陸を宣言した。NASAの年間予算は5億ドル。月にどうやって行くかを検討する組織すら、まだない。

なぜ月なのか。ガガーリンに対抗するだけなら地球周回で十分だ。ケネディとNASA長官ウェッブが選んだのは、ソ連がまだ手をつけていない領域だった。地球軌道ではソ連がリードしている。月ならスタートラインが同じになる。

1962年9月、ケネディはライス大学で4万人を前に演説する。“We choose to go to the Moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard.” 宇宙予算について、こう付け加えた。年間54億ドル。「途方もない額だが、国民がタバコと葉巻に使う金額よりは少し少ない」。

1966年、NASAの予算は59億ドルに達する。連邦予算の4.4%。ケネディ宣言時の12倍。

Design

月にどうやって行くか。NASAには3つの選択肢があった。

直接上昇。巨大なノヴァロケットで地球から月に直行し、そのまま着陸する。直径15mのロケットをケープカナベラルから打ち上げることはできず、ハワイの崖をくり抜いた発射台が検討された。

地球軌道ランデブー。サターンVを複数回打ち上げ、地球軌道上で宇宙船を組み立ててから月に向かう。フォン・ブラウンが支持した案だ。

月軌道ランデブー(LOR)。母船を月軌道に残し、小型の着陸船だけが月面に降りる。帰還に必要な燃料を月に持っていかなくていい。

LORを推したのは、ラングレー研究センターのエンジニア、ジョン・ハウボルトだった。公式の検討会議で何度もプレゼンしたが、主流派に無視され続けた。1960年12月の会議では、同僚のマックス・フェイジェットに面前で攻撃されている。「彼の数字は嘘だ。何を言っているか分かっていない」。

1961年11月、42歳のハウボルトはキャリアを賭けた行動に出る。正規の指揮系統を飛び越え、NASA副長官ロバート・シーマンズに9ページの手紙を直接送った。“Somewhat as a voice in the wilderness”(荒野の声のようなものですが)。月に行く方法はLOR以外にないと訴えた。

シーマンズは手紙を読んだ。ジョセフ・シーに各方式の再評価を指示する。1962年6月、フォン・ブラウンが公式の場でLOR支持を表明。7月11日、NASAはLOR方式の採用を発表した。

この決定がアポロ全体のアーキテクチャを確定させた。サターンV 1機。司令船と着陸船の2つの宇宙船。高さ111m、重量2,970トン、推力3,450万ニュートン。自由の女神より18m高いロケットが、F-1エンジン5基で大気圏を突き破る。

LORにはもう一つ、設計時には誰も想定しなかった利点があった。月着陸船が独立した生命維持系統を持つこと。8年後、この冗長性がアポロ13号の3人の命を救う。

Execution

1963年秋、ジョージ・ミューラーが有人宇宙飛行局長に就任した。スケジュールを見て愕然する。フォン・ブラウンのチームが計画していたサターンVの試験飛行は10回以上。第1段のみ、第1段+第2段、全段。段階的に信頼性を確認してから有人飛行に進む手順だ。この計画では月面着陸は1971年になる。

10月31日、ミューラーは「オールアップテスト」の公式メモを発出した。初飛行から全段を同時に稼働させる。空軍の弾道ミサイル開発で使った手法だった。

フォン・ブラウンのチームは猛反発した。全段同時では、どこで故障が起きたか特定できない。サターンVは量産ミサイルと違い、1機ずつ手作りだ。副長官にも抗議したが、シーマンズは「ジョージと話してくれ」と返している。

ミューラーの論理はこうだ。段階テストはリスクを多くの試験に分散しているだけで、リスクそのものを減らしてはいない。それなら早くやったほうがいい。

決定は全会一致ではなかった。ミューラーの階級がフォン・ブラウンより上だったから通った。

1967年1月27日。アポロ1号。ケープカナベラルの発射台上で「プラグアウトテスト」を実施中、司令船内で火災が発生した。純酸素環境。可燃性の素材。内側に開くハッチ。ガス・グリソム、エド・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3名が死亡した。最初の火の手から最終通信まで17秒。

NASAは21ヶ月間、有人飛行を停止する。調査委員会が司令船を分解調査し、1,000件以上の設計変更を実施した。純酸素環境の廃止。不燃材料への全面置換。外開きハッチ。配線の保護被覆。プログラムマネージャーがジョセフ・シーからジョージ・ロウに交代した。

1967年11月9日、サターンV初飛行。アポロ4号、無人。オールアップテスト方式で全3段を一度に稼働させた。成功。

1968年夏、月着陸船の開発が遅れていた。ロウが提案する。着陸船なしで、司令船だけで月を周回できないか。4ヶ月の準備期間で、12月にアポロ8号が人類初の月周回飛行に成功した。クリスマスイブ、3人の宇宙飛行士が月の周回軌道から創世記を朗読している。

1969年7月20日。アポロ11号の月着陸船イーグルが降下を開始した。高度12,000m付近で、誰も見たことのないアラームが鳴る。1202。搭載コンピュータの処理能力が限界に達していた。ヒューストンの管制室で、24歳のジャック・ガーマンが手書きのメモを確認し、26歳のスティーブ・ベールズに伝える。断続的なら続行できる。ベールズが判断を下した。“Go.”

着陸予定地はクレーターと岩石の原だった。アームストロングが手動操縦に切り替え、2分間水平に飛んで着陸地点を探した。管制室では燃料残量のカウントダウンが進む。60秒。「通常なら着陸2分前の残量で、まだ高度30mにいた」とオルドリンは振り返っている。

残燃料約25秒で、イーグルは「静かの海」に降りた。

People

ジェイムズ・ウェッブは技術者ではなかった。行政官出身の政治家、54歳。ケネディがNASA長官に任命したとき、宇宙工学の専門知識はゼロだった。

ウェッブの仕事は議会だった。年間50億ドルを超える予算を毎年勝ち取り、3つの拠点の対立を調整し、20,000社以上の契約企業を束ねた。アポロ1号の火災後、議会がNASAの解体を求めたとき、ウェッブは自ら矢面に立って組織を守っている。1968年10月に辞任。月面着陸の9ヶ月前だった。

ミューラーは空軍から来た異端児だ。NASAの文化はフォン・ブラウンのドイツ式ロケット工学が支配していた。慎重に、段階的に、すべてを確認してから次に進む。ミューラーはその文化を内側から書き換えた。オールアップテストの決断について、後年こう語っている。「全会一致ではなかった。どの基準で見てもそうではなかった」。

ハウボルトはアポロ11号の着陸をヒューストンの管制室で見届けた。イーグルの着陸成功を確認した後、フォン・ブラウンはハウボルトに向き直った。

“Thank you, John.”

7年前に「数字は嘘だ」と攻撃された男に、かつて反対した側の長が礼を言った。

フライトディレクターのジーン・クランツは着陸直前、管制官たちにこう告げている。“When we walk out of this room, whatever happens, we’re walking out as a team.”

Legacy

6回の月面着陸。12人が月面を歩いた。382kgの月の石。サターンVは13回打ち上げられ、一度もペイロードを失っていない。

アポロ11号の月面着陸を世界で6億人がテレビで見た。

アポロ12号以降、視聴率は急落する。アポロ13号は酸素タンク爆発で注目を集めたが、それは例外だった。15号から17号は科学的にはるかに充実したミッションだったが、国民の関心はすでに月から離れていた。当初計画されていた18号、19号、20号はキャンセルされた。

冷戦の「月面着陸で勝つ」という目標が達成された瞬間に、プロジェクトの政治的存在理由が消えた。科学的価値が最も高かったミッションが、最も注目されなかった。

ケネディは月面着陸を見届けなかった。1963年11月にダラスで暗殺されている。ウェッブも見届けなかった。着陸の9ヶ月前に辞任した。宣言した人間と、予算を守った人間が、どちらも成果を見ることなくプロジェクトを去った。

学び:リスクを分散することと、リスクを減らすことは違う

フォン・ブラウンのテスト計画は合理的に見えた。第1段だけのテスト。第1段+第2段のテスト。全段テスト。失敗しても原因を特定できる。安全な段階を一つずつ積み上げていく。

ミューラーはこの前提を疑った。10回のテストにリスクを分散しても、1回あたりのリスクが下がるだけで、プログラム全体のリスクは減らない。テスト回数分だけスケジュールが延び、月面着陸は1971年になる。ケネディの「10年以内」に間に合わない。

サターンV初飛行でいきなり全段を稼働させ、成功した。3回目の飛行で人間を月軌道に送った。フォン・ブラウンは後にこう書いている。“It sounded reckless, but George Mueller’s reasoning was impeccable.”(無謀に聞こえたが、ジョージ・ミューラーの論理は完璧だった)

同じ構造が別の場面にも見える。

ハウボルトのLOR方式は、月軌道上でのランデブーという「危険な」操作を受け入れた。この「危険」を引き受けたことで、1機のロケットで月面着陸が可能になった。直接上昇やEORの「安全な」方式は、巨大すぎるロケットか複数回の打上げを必要とし、1960年代中の実現が不可能だった。

アポロ1号の火災は21ヶ月の遅延と1,000件以上の設計変更をもたらした。短期的には巨大な損失だ。しかし火災がなければ、不十分な安全設計の司令船で有人月面着陸が試みられていた。計画を遅らせた災害が、計画を救った。

3つの事例に共通する構造がある。アポロが直面していたのは「リスクを小さくする」問題ではなく、「正しい判断を速く下す」問題だった。段階テストは、リスクを感じにくくする。しかし1969年という期限の前では、感じにくいリスクが最大のリスクになる。間に合わないことそのものが、最大のリスクだった。

あなたのプロジェクトでテスト回数を増やしたとき、それはリスクを減らしているか。それとも分散しているだけか。

出典・参考資料

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Project Timeline