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オートストラーダ・デイ・ラーギ — 世界初の高速道路は誰が発明したのか

1922年、一人のイタリア人技師が「autostrada」という言葉を作った。

3年後、ミラノを起点に北へ85kmの自動車専用道路が開通する。荷馬車も自転車も歩行者も入れない道。世界で最初の、たった一種類の乗り物のために設計された道路。

Milan–Varese 区間の建設費は9000万リラ。国庫からは1リラも出ていない。プリチェッリ自らが会社を作り、通行料で回収する設計だった。想定交通量は1日1000台。1938年、実際の通行量は倍になっている。

同じ発明から、1932年のアウトバーンが生まれ、1956年の米国州間高速道路法が生まれる。全世界のモータリゼーションが乗ることになる骨格を、この85kmが決めた。

ただ、それを設計した男の名前は、戦後長らく歴史書から消えていた。

Mission:馬車と自動車が同じ道を走っていた時代

1920年代初頭のイタリア北部は、自動車と馬車と自転車と歩行者が同じ石畳を共有していた。フィアットの車両生産は前年の1万台台から急拡大しつつあり、ミラノを中心に自家用車を持つ富裕層が増えていた。だが道路は19世紀のままだった。

ミラノからマッジョーレ湖まで、直線距離で60kmほど。既存の街道を車で走ると、荷馬車の後ろで速度を落とし、自転車を避け、村の広場では歩行者と入り交じる。速度を出せる区間があっても、路面はすぐに車の重量に耐えられず崩れた。

問題は「道路が悪い」ことではなく、「道路の定義がまだ自動車を織り込んでいない」ことだった。

39歳のピエロ・プリチェッリは、そこで問いを立て直した。今の道を改良するのではなく、自動車のためだけの道路を、一種類の乗り物のために作れないか。しかも国庫を当てにせず。

要件は3つ。歩行者・馬車・自転車の完全排除。平面交差の排除。通行料での回収。

プリチェッリは1921年、公共事業省から史上初の「公共高速道路コンセッション」を取得する。その1年後、彼が公式文書に書きつけた言葉が、この記事の主役になる。

autostrada。「自動車のためだけの道路」。

Design:言葉と、通行料と、1車線

プリチェッリの設計判断は3つに集約される。3つとも、後の世紀に共通するインフラのDNAになった。

1つ目は言葉の発明。1922年の公式文書で「autostrada」というカテゴリを法律上・行政上に新設した。既存の道路法にはこの分類が存在しない。カテゴリを作った側が要件を書ける。「自動車以外の通行を禁止する」「平面交差を持たない」「有料である」。これらの条件は、autostrada の定義に組み込まれた。改良ではなく、新カテゴリ。

2つ目は資金モデル。プリチェッリは Società Anonima Autostrade を設立し、通行料で建設・運営費を回収する事業体を作った。国庫は一部の補助しか出さない。前例のないインフラを、政府の意思決定を待たずに立ち上げる仕組みだった。当時の欧州で、これに近いのは英国の一部有料橋くらい。「道路で通行料を取る」という発想そのものが実験だった。

3つ目は最低限のスペック。全区間、両方向1車線ずつ。中央分離帯なし。インターチェンジという概念もこの段階ではまだ存在しない。速度を出せるように緩やかなカーブを描き、平面交差を避け、路面には当時の高強度コンクリートを採用した。だが幅は狭かった。想定交通量1日1000台。この見積もりが、後で効いてくる。

プリチェッリはモンツァ・サーキットの建設プロジェクトを率いた男でもあった。1922年9月、Milan–Varese のコンセッションが動き始めていたのと同じ年に、彼が設計・建設フェーズを主導したモンツァが完成している。5月に着工し、110日で通した。世界で最初期の常設モーターレース場の一つ。高速で走る車が路面と道路形状に何を要求するかを、レース場で実地で掴んでいた男だった。

「実験場を持っている」ことが、たぶん一番の武器だった。速度と道路の関係を教科書ではなく手で知っていた。

Execution:起工から3年、政権交代を越えて

1923年3月26日、Milan–Varese 区間の起工式。ムッソリーニが自ら「最初のツルハシ」を振るった。政権を握って半年もたっていない。ファシスト政権はプリチェッリの構想を国家PRとして拾い上げた。だが事業体は民間コンセッションのまま維持された。政治資本は借りたが、所有権は渡さない。

建設は3年で通した。1923年着工、1924年9月に Milan–Varese が開通、1925年に Lainate–Como、Gallarate–Sesto Calende が続き、全区間が開通する。

現代の目で見ると3年は速い。用地買収も、鉄筋コンクリート路面の施工も、平面交差を排除するための立体交差橋も、いずれも前例がほとんどない工事だった。プリチェッリは Torino–Milano 区間の建設で「1日平均2000人の労働者」という数字を残しているが、Milan–Varese 区間の労働者数の正確な記録は残っていない。

Milan–Varese の建設費は9000万リラ。当時のイタリアの国家歳出は年間数十億リラの規模で、公共事業として突出して大きいわけではない。ただしそれは、国庫の負担ではないから小さくできた側面もある。民間で資金を集めるためには、事業が回る規模でスタートせねばならない。プリチェッリは「1日1000台の通行量で採算が取れる」線を引き、そこに合わせて設計した。

1924年9月21日、開通式。国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世が自らランチア・トリカッパを運転して開業テープを切った。国王が「新しい種類の道路」に自ら乗ることは、大衆に対する明確なメッセージだった。この道路は既存の街道の延長ではない。別カテゴリのインフラだ。

開通後、想定通り1日1000台程度で回り始める。だがそれで終わらなかった。

1938年、通行量は2000台/日を突破する。開業から14年で計画値の倍。ちょうどイタリアで大衆モータリゼーションが本格化する時期にあたり、フィアット500トポリーノに代表される小型車の普及と、通行量の伸びは同じ曲線を描いた。

計画は当たった。当たりすぎて、車線数不足を招いた。

People:39歳のロムナーゴ伯爵

ピエロ・プリチェッリ(1883–1951)。 土木技師、実業家、後にロムナーゴ伯爵。

39歳で autostrada を発明した。その前年にモンツァ・サーキットを完成させ、その3年前にはミラノ工科大学で教鞭も執っていた。道路工事の請負業から出発し、家業を継ぐ形で経営者になった。技師と経営者と発明者の三役を、一人で兼ねていた男。

彼が偉かったのは、「新しい種類の道路」の物理設計ではない。1922年の公式文書に「autostrada」の3行の定義を書き込んだ、その3行が本質だった。物理より制度が先。物理はコンクリートの厚さと勾配で決まるが、制度は言葉で決まる。言葉を書ける立場に自分を置いた。

戦間期の欧州で、彼は国境を越えて知られていた。1925年、まだ Milan–Laghi が全通したばかりの時期に、プリチェッリは「欧州横断高速道路網」の構想を発表する。パリ、ベルリン、ローマを autostrada で結ぶ壮大な計画。まだ全長85kmの実物しかない段階で、大陸規模のネットワークを構想した。

1933年、政権を取った直後のヒトラーがプリチェッリを個人的に招いた。ドイツ道路総監に就いたばかりのフリッツ・トートが同席する。ヒトラーはアウトバーン網の構想をプリチェッリから吸収したかった。

ここで奇妙なドラマが起きる。トートとプリチェッリは、道路設計思想をめぐって激しく衝突した。イタリア側の主張とドイツ側の主張がどちらも譲らず、ヒトラーとムッソリーニの間の外交問題化寸前まで行ったとされる。技師どうしの主導権争いが、二人の独裁者を動かすところまで来た。

プリチェッリは以後、アウトバーン計画から距離を取る。ムッソリーニ政権との関係を優先した結果、彼の発明者としての国際的評価は、戦後長らく埋もれた。ドイツで生まれた autobahn の言葉と、米国で生まれた highway の言葉のほうが世界に流布した。

1951年、68歳で没する。プリチェッリの名前は、100周年を迎えた2024年に世界的に再評価されるまで、教科書の隅にあった。

Legacy:85kmが決めた100年

Milan–Laghi 開通から8年後の1932年、ドイツで最初のアウトバーン(Bonn–Köln 区間)が開通する。設計思想の系譜は明らかにイタリアからドイツへ流れている。プリチェッリが1925年に構想した欧州網が、ドイツで縮小版として形になった。

1935年以降、ナチス政権はアウトバーン網を急拡大し、戦前までに3859kmを完成させる。イタリアが発明したカテゴリを、ドイツが規模でスケールさせた。

1956年、米国州間高速道路法が成立する。連合軍最高司令官として第二次大戦でヨーロッパを進撃したアイゼンハワーが、アウトバーンの機動性に驚いた体験を、大統領として何度も語ることになる。イタリア→ドイツ→米国という影響の連鎖。85kmから始まった発明が、20世紀後半に7万7000kmになった。

一方、発祥地イタリアは戦後、Milan–Laghi を A8(Autostrada dei Laghi)と A9(Lainate–Como–Chiasso)として近代化する。1車線×2は多車線化され、料金所は自動化され、Autostrade S.p.A.(後の Atlantia/ASPI)が全国網を運営する事業体として肥大化した。プリチェッリのコンセッション事業体が、そのまま100年後の民営インフラ運営企業に連なっている。

2018年8月、ジェノヴァのモランディ橋が崩落し43人が死亡する事故が起きる。事業者は ASPI。オートストラーダ・デイ・ラーギから続く民間コンセッション網の、その延長線上で起きた事故だった。「速く安く作る」思想が、「安く維持できていたか」の問いにひっくり返る形で、100年後に届いた。

2024年9月21日、開通100周年の記念式典が Lainate で開かれた。プリチェッリの名前が国家的に再評価された。

学び:新しいカテゴリは、言葉が先に来る

Milan–Laghi のプロジェクトを「工事」として見ると、話は小さくなる。85km、3年、9000万リラ。工事としては大型ではあるが、100年後を変えるほどのスケールではない。

でも「工事」ではなく「カテゴリの発明」として見ると、話が変わる。

プリチェッリがやったのは、物理的な道路を作ることの前に、法律上・行政上のカテゴリを新設することだった。1922年の公式文書に書きつけた「autostrada」の3行の定義。既存の道路法には存在しない区分。既存の予算科目にも存在しない区分。だから彼はコンセッションという新しい資金モデルも同時に発明せねばならなかった。カテゴリを作れば、要件も、資金も、法律も、その定義に引き寄せられる。

これは道路だけの話ではない。

Kubernetes 以前の「コンテナオーケストレーション」も、iPhone 以前の「スマートフォン」も、Airbnb 以前の「バケーションレンタル」も、Netflix 以前の「ストリーミングサービス」も、いずれもカテゴリの発明が物理的な作物より先に来た事例だった。カテゴリを定義した側が、そのカテゴリで満たすべき条件を書ける。他社はその定義に追随して設計を強いられる。

プリチェッリの発明の逆説は、彼自身がその主導権を長く保てなかったことにある。1933年のヒトラー・トートとの衝突で、ドイツ主導権への統合を拒み、以後アウトバーン網の設計から離れた。結果、autobahn と highway の言葉のほうが世界に広まり、autostrada は発祥地の名前で終わった。

カテゴリを発明した者が、そのカテゴリの主導権を保ち続けるとは限らない。次の世代の巨大プロジェクトが規模で追い抜くと、発明者の名前は消える。プリチェッリの100周年再評価は、その埋もれからの復旧作業だった。

もう一つ、Milan–Laghi の1車線×2という設計。想定1000台/日は開業14年で倍を突破し、1車線設計は数十年後に慢性渋滞と多車線化コストを招いた。新しいカテゴリの需要は、線形外挿では読めない。発明が成功すればするほど、初期設計は早く陳腐化する。

これは失敗ではない。1車線から始めなければ、そもそも85kmを民間資金で3年で通せなかった。「成功による陳腐化」は、新しいカテゴリを立ち上げるプロジェクトが構造的に抱える宿命に近い。

新しいカテゴリを作るとき、プロジェクトの中心にあるのは工事ではなく、言葉だ。定義を書ける立場を、まず自分で作る。作った後、他人がその定義を規模で置き換えていくのを、覚悟の上で見送る。

そこまで含めて、autostrada の発明だった。

出典・参考資料

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