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ブルジュ・ハリファ — 828mを6年で建てたチームが、開業4日前にビルの名前を渡した理由

2010年1月4日、開業式。

地上828m、163階。世界最高の建築物。式典の4日前、ビルの名前が変わった。Burj Dubai から Burj Khalifa へ。Burj Dubai は1ヶ月前まで使われていた正式名称だ。改名理由は明示されなかったが、関係者の誰もが理解していた。アブダビ首長ハリーファ・ビン・ザーイドが、開業直前のドバイに250億ドルを貸したからだ。

工事は2004年1月12日に着工し、外装は2009年10月に完成した。6年弱で828mを建てた。コンクリートを600m超まで一気に圧送する記録、Y字平面とバットレス・コアの構造設計、世界最速のエレベーター。技術と工程の物語としては、ほぼ完璧だった。

完璧でなかったのは、開業日に高層階の8割が空いていたことだ。

Mission:脱石油の象徴を1棟に詰める

2003年のドバイは、石油から逃げようとしていた。

ドバイ首長国の原油埋蔵量は当時すでに枯渇に向かっていた。UAE全体の埋蔵量の大半はアブダビにあり、ドバイの石油収入は2000年代前半でGDPの数%まで縮んでいた。シェイク・モハメド・ビン・ラシードは観光と金融でドバイを食わせると決めた。そのための象徴として、世界一の高さのビルを1棟立てる。Emaar Properties会長のモハメド・アラバールが事業主体となった。

要件はシンプルだった。世界一であること。倒れないこと。間に合うこと。

「世界一」は数字の問題ではない。当時の世界最高はマレーシアのペトロナス・ツインタワー(452m)で、台湾の台北101(508m)が翌2004年の開業を控えて建設最終段階にあった。これを抜けば良いのではなく、抜いた後に容易に抜き返されてはいけない。設計過程で目標高さは何度も上方修正された。最終的に828m。次点の高層ビルから300m以上引き離す数字だ。世界一の称号を、競合の射程外まで持っていく設計だった。

建築設計はシカゴのSkidmore, Owings & Merrill(SOM)。主任建築家はAdrian Smith、構造主任はBill Baker。Smithは中国の金茂大廈やシカゴのトランプ・タワーを手掛けてきた超高層の第一人者で、当時60歳前後。Bakerは構造工学者として、このプロジェクトの肝になる「buttressed core」構造を、それまでに手掛けた高層計画から発展させてきた人物だ。

施工はSamsung C&T(韓国)、Arabtec(UAE)、BESIX(ベルギー)のジョイントベンチャー。実質的な工程管理は韓国のSamsung C&Tが握っていた。Samsungは台北101やマレーシアのペトロナスでも超高層の経験を積んでいる。

Design:風を逃すための花

828mの建物が立ち続けるためには、自重よりも風荷重との戦いが本質的な課題になる。高層になるほど風が建物を揺らし、振動が住人を苦しめ、構造を疲労させる。

Bakerが選んだ解はY字平面だった。

3本の翼が中心の六角コアから放射状に伸びる。設計者は地元の砂漠植物ヒメノカリスをモチーフだと説明したが、実際の選定理由は構造的なものだ。3つの翼が互いに支え合うことで、ねじれに強くなる。六角コアと3翼が一体となった「バットレス・コア」構造は、翼の方向を高層階に行くにつれ段階的に切り詰めることで、頂部に行くほど断面積が小さくなる螺旋的なシルエットを作る。

この形には2つの効果がある。1つは見た目のドラマ。下から見上げると、塔がまるで自分から細くなって空に伸びていくように見える。もう1つは風工学的な効果。階ごとに断面が変わるため、風が建物の側面で渦を作って同期共振を起こすことを防げる。風洞実験を繰り返し、翼が縮む位置を細かく調整した。結果として、当初設計から風荷重を約25%下げることに成功している。

Y字平面のもう1つの利点は、設計変更の柔軟性だった。Smithらは設計途中で高さを何度も上方修正している。世界一の称号を確実なものにするための調整だ。バットレス・コアは翼を縦に積み増しできる構造だから、高層化のたびに設計を1から作り直さずに済んだ。3翼それぞれが独立した居住空間として完結しているのも、ホテル、住居、オフィスを高さで分けるドバイの商業ニーズに合っていた。

156階より上は別の構造になる。コンクリートの内コアから鉄骨フレームに切り替わり、ほとんど人の入らない尖塔部を構造的に支える。住居としての終わりと、シンボルとしての高さの追求が、156階で物理的に分離されている。

Execution:600mのコンクリート、4ドルの労働

施工現場は2007年にピークを迎えた。1日12,000人の作業員。ほとんどが南アジアからの移民労働者だった。

最大の技術課題はコンクリートだった。中低層のビルなら、ポンプで液体コンクリートを上に押し上げて流し込むのが標準的な工法だ。だが600mを超える高さでは、配管内のコンクリートの自重だけで25トンを超える。普通のポンプでは押し上げられない。

施工チームはドイツのPutzmeisterと共同で、新型ポンプBSA 14000 SHP-Dを開発した。出力630馬力。これで606mまでコンクリートを一気に圧送する。地上から156階の打設点まで、液体コンクリートが届くのに40分かかった。ドバイの外気温は夏に50度近くに達する。途中で凝結が始まれば、配管が固まって全てが止まる。配合に氷を混ぜ、夜間に打設して凝結を遅らせた。

エレベーターも世界記録だった。最高速度10m/s、時速36km。世界最長の走行距離。だがこれは超高層ビルとしては「ぎりぎり間に合った」技術だ。地上から最上階まで1基で直通させると、ロープの自重が増えすぎて成立しない。ロビー階を中継点にしてエレベーターを乗り換える設計になっている。

数字で見る工程の凄まじさはこうなる。延べ22百万人時間。コンクリート総量330,000立方メートル、鉄筋31,400トン。建設の最速期で3日に1階のペースで上に伸びた。当初計画は2004年から2008〜2009年完成の見込みで、外装完成は2009年10月。これは計画範囲だった。

工程の達成は、労働コストの極端な圧縮に支えられていた。South Asia出身の移民労働者の日当は概ね4ドル前後と報じられている。週6日、1日12時間労働。雇用主に旅券を預ける慣行が広く行われていた。2007年10月、賃金引き上げと環境改善を求めた抗議行動が起きた。約4,000人が逮捕され、その多くが半年の拘留後に国外退去になった。公式記録上の建設死亡事故は1件。157階からの墜落事故が一度報告されている。1件で済んだことが奇跡なのか、それとも数えていないだけなのかは、判断が難しい。

15億ドルという建物本体の総工費には、これらの労働コストは事実上ほとんど計上されていない。記録に残らない部分が、世界一の建物を予算内に収めた最大の要因だった。

People:4日前に名前が変わった

2009年9月、リーマンショックから1年。ドバイ・ワールドという政府系コングロマリットが債務不履行に陥ろうとしていた。総債務800億ドル。ドバイ全体が外貨建てで借りまくった結果が、市場の収縮と同時に表面化した。

開業まで4ヶ月。完成は見えていた。問題は完成後だった。高層階の住戸はほとんど売れていない。観光客も金融街への入居企業も、不況の中で動かない。

2009年12月14日、アブダビが100億ドルの緊急融資をドバイに供与した。これでドバイ・ワールドの当座の利払いは凌げる。年内にはさらに上積みされ、最終的にアブダビと連邦政府からの救済規模は累計250億ドル規模に達した。

12月の最終週、ドバイ政府がEmaarに通知した。開業式当日、ビルの名前を変える。Burj Dubai から Burj Khalifa へ。Khalifa は当時のUAE大統領、アブダビ首長のハリーファ・ビン・ザーイドの名前である。改名の理由は公式には明言されなかったが、世界のメディアは「救済への謝意」と書いた。

シェイク・モハメドにとって、改名は屈辱でも譲歩でもなかったはずだ。アブダビの救済はドバイの自立を一度終わらせたが、UAEという国家の一体感を強化した。「世界一の建物がアブダビ首長の名前を冠する」という事実は、ドバイ単独の野心ではなく、UAE国家としてのプロジェクトに事後的に再定義された。

開業式典の壇上で、モハメド・アラバール(Emaar会長)はこう述べた。「私たちは今日、世界一高い建物を開業できることを大変誇りに思う」。名前の変更については触れなかった。

Bill Bakerは構造についてこう語っている。「バットレス・コアが機能するのは、3つの翼が一体で働くからだ。互いに支え合うことで、ねじれと横力に抗える」。設計の言葉として聞けば技術論だが、政治の言葉として聞けば、ドバイとアブダビの関係そのものを言い当てているように聞こえる。

Legacy:「世界一」というKPIの両刃

開業から1年経った2011年初頭、Burj Khalifa高層階の空室率は推定80%超だった。

世界一の建物は世界一の集客を生んだ。展望台への入場料は飛ぶように売れ、ダウンタウン・ドバイの観光地化は計画以上の速度で進んだ。住居・オフィスとしてのキャッシュフローのほうは、開業後5年以上にわたり想定を大きく下回り続けた。

ドバイ自体の回復はそれより少し早かった。アブダビの救済資金を呼び水に、ドバイは観光・物流・金融のハブとしての地位を再構築する。2014年頃から不動産市況は回復し、Burjの空室も徐々に埋まっていった。2020年代に入る頃には、世界の超高層ビルの完成スケジュールに次々と遅延が出るなかで、Burj Khalifaは828mの座を10年以上保ち続けた。サウジアラビアのJeddah Towerが2008年に着工しながら、10年以上にわたり建設が止まったり再開したりを繰り返している間にも、ドバイは記録を守り続けている。

開業15年後の2025年初頭、入居率は85〜90%まで回復した。1ベッドルームの年間賃料はAED15〜18万(約600〜720万円)、坪単価はドバイ全体平均の約1.8倍。2024年の住戸売買はAED4億6,710万。住戸というKPIも、12〜15年遅れで想定線に戻ってきたことになる。

回収のほうは、住戸ではなく観光が主役だった。「At the Top」展望台は年間180万人前後を集め、入場料収入だけで年間1.5〜1.9億ドル規模と推計されている。維持費は年1,500〜2,000万ドル。建物本体の総工費15億ドルは、展望台の純キャッシュフローだけで10年程度で回収できる計算が成り立つ。Emaarは2010年代後半に「At the Top」の将来キャッシュフローを担保にした証券化の検討を公にしている。観光収入が、建物単体のバランスシートを支える主柱になっている。

世界一の名前は、結果としては取れた。だが取り方は、開業時点の予測とは違っていた。住居や賃料というキャッシュフローKPIではなく、観光と国家ブランドという別のKPIで先に回収した。

技術側の数字は驚くほど計画通りだった。工期は計画範囲内、コストは概ね15億ドル、構造は風荷重を25%下げる設計通りに機能した。狂ったのは需要側、つまりプロジェクトの内部では制御できない外部環境のほうだった。

学び

ブルジュ・ハリファは、「工期は守れた、市場は守れなかった」という形のプロジェクトだ。

PMが見積もるべきものには、2種類ある。1つは内部の見積もり。工期、原価、技術仕様。これらは反復実験とプロセス改善でコントロールできる。Samsung C&Tは6年前後でこれをやりきった。もう1つは外部の見積もり。市場、需要、為替、政治。これらは長期スパンでは予測不可能だ。住戸が売れるか、観光客が来るか、賃料が払われるか。2004年の時点で2010年の市況を当てるのは、ほぼ運任せに近い。

問題は、計画書上ではこの2つが区別されていなかったことだ。建設工程と販売計画と回収シナリオが、ひとつの「計画」として承認された。前者は守れる前提で書かれ、後者も同じように守れる前提で書かれた。実際には前者だけが守られた。

外部の見積もりが外れたとき、ドバイには2つの選択肢があった。プロジェクトの撤退と、救済の受け入れ。撤退は野心の終わりを意味する。救済は自立の終わりを意味する。選んだのは救済だった。代償として、ビルの名前を渡した。

ここに、もう一つの構造がある。危機のリカバリは、物理的な復旧だけでは終わらない。物語の書き換えが同時に必要になる。Burj Dubai が Burj Khalifa になった瞬間、このプロジェクトは「ドバイの単独野心」から「UAE国家プロジェクト」に再定義された。「アブダビに助けられた」というネガティブな事実が、「UAEがひとつになって世界一を建てた」というポジティブな物語に上書きされた。改名は物理的な変更ではない。ナラティブの変更だ。

828mの建物は、開業から15年以上たった今も世界一の座にある。技術の勝利は揺るがない。同時に、改名のような形でしか開業に辿り着けなかった事実も、同じ歴史の中にある。

世界一を取りに行くプロジェクトは、内部の計画だけでは完結しない。外部の市況がブレたとき、自分の名前を差し出せる相手がいるかどうか。それも設計の一部だ、というのが、このプロジェクトが残した教訓だ。

出典・参考資料

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Project Timeline