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ハーバー・ボッシュ法 — 40億人の命を支える、空気から作る肥料

1909年7月、カールスルーエの研究室で空気からパンが作られた。4年後、それは工場になった。

大気の8割は窒素である。

植物はそれを使えない。N₂ という分子の三重結合は、地球上のほぼあらゆる生物にとって硬すぎる。植物は土の中の窒素化合物しか吸えず、その窒素化合物は雷と一部のバクテリアが少しずつ作る。だから人類は、ずっと窒素肥料が足りなかった。

19世紀の終わり、ヨーロッパ各国はチリの砂漠から運ばれてくる白い粉に依存していた。チリ硝石。乾いた地層から掘り出された天然の硝酸ナトリウム。それを肥料にし、火薬にした。1898年、英国学術協会会長のウィリアム・クルックスは演説でこう警告している。 チリの埋蔵量が尽きれば、人類は食糧危機を迎える、と。

12年後、ドイツのカールスルーエ工科大学の研究室で、フリッツ・ハーバーという物理化学者が、空気と水素からアンモニアを作って見せた。

毎時、約125ミリリットル。

コップ半分にもならない量だった。その量を見て、ドイツ最大の化学企業 BASF は、その日のうちに権利を買った。

4年後、彼らは1日 40トンのアンモニアを作る工場を、ライン川のほとりに立ち上げる。スケール比、ざっと32万倍。

Mission:空気を肥料に変えるという要件定義

1900年前後、世界の窒素源はおおむね3つだった。チリ硝石、グアノ(南米沿岸の鳥の糞の堆積)、そして空気から作る人工硝酸(ノルウェーのアーク放電法など)。

ドイツはどれにも不利だった。チリ硝石は英国の海上輸送が支配しており、戦時に止められる。グアノはもっと脆い。アーク放電法は水力発電が前提で、ドイツの地理には向かなかった。

そして肥料の話は同時に火薬の話でもあった。当時のすべての近代国家にとって、硝酸塩は食糧と弾薬の共通通貨だった。「窒素の自給」は、ドイツ政府にとって農政と国防が一緒に化粧をした顔だ。

ハーバーが研究していたのは、もっと地味な問題に見えた。N₂ と H₂ からアンモニア(NH₃)を作る平衡反応の条件を、温度と圧力でどう動かせるか。教科書的に整理すれば次のようになる。

  • 圧力を上げるとアンモニアの収率が上がる
  • 温度を上げると反応速度は上がるが、平衡は逆向きに動く
  • 触媒を入れると、温度を上げすぎなくても反応速度が出る

書けばこれだけのことが、実装すると地獄になる。150気圧で500℃の容器を、24時間連続で動かす技術が、当時の地球には存在しなかった。

ハーバーはそれを、研究室の小さな鋼の管の中で、オスミウム触媒を使って実演した。1909年7月2日のことだ。立ち会ったのは BASF からの3人。研究を率いるカール・ボッシュ、触媒研究者のアルヴィン・ミッタッシュ、そしてチーフメカニックのユリウス・クランツ。

社内には慎重論もあった。150気圧の連続運転など工業ではあり得ない、という意見である。

ボッシュは反対した。「やれる」と判断する。当時34歳の彼は冶金と化学の両方の学位を持つ数少ないハイブリッド型エンジニアで、責任を引き受けた。

BASF は同月のうちに、ハーバーの特許を独占ライセンス契約で押さえる。前金、ロイヤリティ、その後の発明への先取権。ほぼ「白紙の小切手」と呼べる契約だった。

Design:高圧・高温・水素という3つの極端条件

研究室の成功は、原理の証明にすぎない。BASF に渡されたのは、平衡式と、滴下するアンモニアの写真と、オスミウムというめったにない金属の触媒データだった。

工業化する前提として、3つが必要だった。

ひとつ、高圧に耐え続ける反応器。150気圧というのは、深海でいえば1500メートル相当である。連続運転する場合、それを数年間、毎日、温度500℃で保たなければならない。

ふたつ、安価な触媒。オスミウムは当時、全世界の年間採掘量が数キログラム。これで工業生産はできない。

みっつ、大量の水素と窒素を作る仕組み。空気から窒素を分離し、水蒸気と石炭から水素を取り出し、両方を高圧で循環させる。各工程がそれ自体ひとつの工業プロセスだった。

BASF はボッシュに、この3つを全部任せた。事業計画書は要求しなかった。

ボッシュは新しいプロジェクトに、社内で約100人のチームを与えられた。彼が最初にやったのは、「研究室にあるもの」を疑うことだった。ハーバーの炭素鋼の反応器は、数時間で内側がぼろぼろになる。鋼の中の炭素が高温の水素に奪われ、結晶が脆くなる。水素脆化と呼ばれる現象である。

数週間、彼は気づかないふりをして実験を続けたあと、結論する。今の鋼では無理だ。

その結論から逆算して、彼は二重構造の圧力容器を発明する。内側に多孔質の鉄ライナーを置き、外側に低炭素の合金鋼を置く。水素はライナーを通り抜けるが、外殻には届かない。届く前に、ライナーと外殻のあいだに開けた小さな穴から逃げる。

実装には数年かかった。試作した反応器の数は、彼自身のノーベル賞講演によれば「20基余り」、各容器で「20,000回以上の試験」。

触媒のほうは、ボッシュの右腕だったアルヴィン・ミッタッシュが受け持った。彼が組み上げたのは、当時として異様な装置である。30台の高圧ミニ反応器を並列に動かし、それぞれに2グラムずつ異なる組成の触媒を入れて、同じ条件で同時にテストする。

ハイスループット・スクリーニング、と現代の創薬研究者なら呼ぶだろう。1922年までの実験回数は、約2万回。

その膨大なログから、鉄に酸化アルミニウム数パーセントと酸化カリウム1パーセント未満を加えた混合触媒が浮上した。地球上どこでも採れる元素だけで、オスミウムと同等以上の活性を示した。

その触媒は、それから100年、基本構造を変えずに使われている。

Execution:4年で32万倍

最初の実証プラントは、ボッシュの故郷でもあるルートヴィヒスハーフェンの隣、オッパウに建てられた。1910年から土地を確保し、設計と発注を並行で走らせる。

工場の中で何が起きていたかは、当事者のメモが断片的に残っている。

ある反応器は、運転開始から数日で内殻が破裂した。圧力計が振り切れて、轟音が3キロ先の市街地まで届いたという記録がある。

その夜、ボッシュは現場に泊まり込んだ。翌朝、ライナーの穴の位置を変えた図面を描いた。次の反応器ではその場所が割れた。彼は穴の数を増やした。3台目で、ようやく100時間連続運転が達成された。

これを、2万回繰り返している。

オッパウ工場が稼働を始めたのは1913年9月9日。当初の年産能力は約9,000トンのアンモニアだった。1914年には40トン/日に達する。研究室の125ミリリットル/時から、ざっと32万倍である。

カール・ボッシュは後年、研究室の真実と工場の真実はまったく別のものだ、という主旨の発言を繰り返している。彼が言いたかったのは、おそらくこういうことだ。

研究室では、触媒は新品でいい。工場では、5年保たねばならない。

研究室では、配管に少し水素が漏れていてもいい。工場では、漏れれば爆発する。

研究室では、1リットルあたりの収率がすべて。工場では、トラブルなく回り続けることがすべて。

工期は、ハーバーの実演(1909年7月)から商用稼働(1913年9月)までで 4年2ヶ月。事業計画なしに始まったプロジェクトとしては、驚くほど計画的に進んだ部類に入る。ただし、最終的にかかった投資総額は当時の BASF の年間収益の数年分にあたり、社運を賭けたという表現は誇張ではない。

その投資は、稼働翌年に予想外の形で回収される。

1914年8月、第一次世界大戦が始まる。英国海軍はチリからドイツへの硝石輸入を遮断した。ドイツ陸軍が依存していた火薬原料が止まったのだ。戦争は半年で終わると見られていたが、もし窒素自給がなければ、ドイツは1915年の春には火薬を撃ち尽くしていたという推計がある。

オッパウ工場の生産物は、ほとんどそのまま硝酸の原料に転用された。肥料工場が、戦争を1年延ばした。

People:滴下する男と、社運を背負った男と、その妻

フリッツ・ハーバーは、当時のドイツ科学界の典型例のような人だった。ユダヤ系の商人の家に生まれ、若くしてプロテスタントに改宗し、母国のために科学する、と心から信じていた。1909年の実演のとき、41歳。カールスルーエ工科大学の教授で、まだ40代前半でドイツ化学会の中心人物の一人だった。

彼の妻、クララ・イマヴァールはドイツで最初の女性化学博士のひとりである。1900年、ブレスラウ大学で学位を取った。物理化学を専攻し、結婚後も研究を続けたが、家事と子育てと夫の補佐に時間を奪われ、自分の論文は事実上書けなくなる。

1914年に戦争が始まると、ハーバーは陸軍の科学顧問になる。彼が手がけたのは、肥料の話ではなかった。塩素ガスを兵器として戦線に投入する計画である。1915年4月22日、ベルギーのイーペル戦線で、ドイツ軍は約 168 ロングトン(約170 メートルトン)の塩素ガスを 6,000 本のシリンダーから放出した。直接の死者は推計 1,100 人以上。第一次世界大戦における初めての大規模毒ガス攻撃となった。

ハーバーはその現場で指揮を執っていた。

5月2日、彼はベルリンに戻る。階級は大尉に昇進し、東部戦線でのガス攻撃指揮のために翌朝発つ予定だった。その夜、自宅で彼の昇進祝いと送別を兼ねたパーティーが開かれている。

未明、クララ・イマヴァールは庭で、夫の軍用拳銃で胸を撃った。13歳の息子ヘルマンが銃声を聞き、駆けつけた父の腕の中で母は息を引き取った。彼女は夫の毒ガス開発を「科学の精神への倒錯」と公然と非難していた。

ハーバーはその朝、予定通り東部戦線に向かって出発している。塩素ガスの実戦投入のためだった。

3年後、ハーバーはアンモニア合成の業績で1918年のノーベル化学賞を受賞する。授賞式は1919年7月。受賞講演で彼は、塩素ガスの話を一切しなかった。

カール・ボッシュは1874年8月27日、ケルンに生まれた。ハーバーより6歳若い。シャルロッテンブルク工科大学で冶金と機械工学を学び、続いてライプツィヒ大学で有機化学の博士号を取得した、当時としては希少なハイブリッド型エンジニアだった。1899年4月15日 BASF 入社。1909年7月の運命の実演を見たとき、彼はまだ34歳である。

彼は後年、ハーバーの実演を見た瞬間の判断について、自分が知っていたのは化学だけでなく鋼でもあったから決断できた、という趣旨の発言を残している。ハーバーが示したのは平衡の式と滴下するアンモニアだけだったが、それを工業化するには鋼と圧力の方程式が必要であり、両方を読める人間が現場に居合わせたのは偶然だった、と。

ボッシュは1931年にノーベル化学賞を受ける。受賞理由は「高圧化学法の発明と発展への貢献」。ハーバーの13年後だった。

晩年、彼は IG ファルベンの会長になるが、1933年のナチス政権成立後、ハーバーを亡命に追い込んだ党幹部を公然と非難し、社内で孤立する。1940年、肺炎で死去。

ミッタッシュは1953年まで生きた。触媒研究の父と呼ばれ、20世紀後半の石油化学・自動車触媒・環境触媒のほとんどに、彼の方法論の影が落ちている。

Legacy:人口の半分と、4,500トンの爆発と、地球温暖化の1パーセント

1900年、地球上に人類は 16 億人いた。2025年、80 億人を超えた。125年で 5倍である。

人類史の他のどの125年も、これに近いことはやっていない。

ヴァーツラフ・スミルというカナダの環境科学者がいる。エネルギーと食料の歴史を、データだけで語る仕事で知られている。彼と、後継研究者のヤン・ウィレム・エリスマンの試算では、現在の世界人口の 約半分が、ハーバー・ボッシュ法で作られた窒素肥料に「身体の構造として」依存している。

「依存している」とは、彼らの体を作るアミノ酸のなかの窒素原子が、植物→動物→人間という経路で辿ると、最終的にオッパウや、その後世界中に増殖した同型の工場の反応器を通った窒素だ、ということだ。

エリスマンの 2008年推計で 48 パーセント。世界人口の半分。およそ 40 億人である。

別の角度から見るとこうなる。1908年、世界の農地は 1ヘクタールあたり 1.9 人を養っていた。2008年、同じ 1ヘクタールが 4.3 人を養っている。耕地の総面積は同期間に 850万平方キロから 1500万平方キロに増えただけだ。残りの差分はすべて、単位面積あたりの収量増である。その収量増の最大の燃料が、ハーバー・ボッシュ法で作られた窒素肥料だった。

仮にこの装置が存在しなかった場合、現在の耕地面積でも地球は約 30 億人しか養えない、というのがスミルの試算である。50 億人が、いま生きていない。

人類が発明したありとあらゆる装置のうち、もっとも多くの人間を「いま生かしている」のは、おそらくオッパウから始まったこの反応器の系譜だ。

ハーバー・ボッシュ法は、それを4年で起動した。

ただし、その工場は静かには動かなかった。

1921年9月21日午前7時32分。オッパウ工場の硫安・硝安混合肥料を保管していた高さ20メートルのサイロが、爆発する。約4,500トンの肥料が一度に起爆した。TNT 換算で1〜2キロトン。直径125メートル、深さ20メートルのクレーターができた。

死者561人。負傷者は約2,000人。工場周辺の住宅は2キロ圏内まで吹き飛んだ。

事故の引き金は、肥料を取り扱いやすくするための「ダイナマイトでサイロ内部を砕く」作業手順だった。乾燥度の変更によって混合肥料の爆発感度が変わっていたことに、誰も気づいていなかった。

ボッシュは事故報告書の冒頭で「人を運ぶ装置として工場を再定義する」と書いた。BASF はこの事故をきっかけに、工業安全という概念を社内に組み込み始める。それは今日の HSE(健康・安全・環境)の遠い源流のひとつである。

現代の影響は、もうひとつある。

世界のアンモニア生産量は年間 約1.5億トン。製造プロセスは、メタンの水蒸気改質で水素を作り、それをハーバー・ボッシュ反応器に通すという、1913年の延長線上の技術である。これだけで、世界のエネルギー消費量の 1〜2 パーセント、温室効果ガス排出量の 1〜2 パーセントを占める。

人類が空気を食料に変える代償は、現在進行形で大気にも書き込まれている。

学び:実験室の真実は、工場の真実ではない

ハーバー・ボッシュ法の話で、いちばん硬い学びは、おそらくこれだ。

スケールが 1万倍を超えると、それまで無視できた制約が支配的になる。物理量の比例式は、その手前で破綻する。

ハーバーの研究室では、オスミウムでよかった。工場ではダメだ。研究室では炭素鋼でよかった。工場ではダメだ。研究室では数時間動けばよかった。工場では数年動かねばならない。

ひとつだけスケールが変わるのではない。すべての制約が、同時に別の順位で並び替わる。

ソフトウェアでも同じことが起きる。プロトタイプでは「ちゃんと動く」ことだけが要件だが、本番では「落ちない」「直せる」「監視できる」「人を増やせる」「セキュリティが切れない」が要件に化ける。「ちゃんと動く」は、要件のひとつから、要件の前提に格下げされる。

このとき、賢い組織がやることは、二つに分かれる。

ひとつは、ハーバー・BASF 型の判断である。「実装の真実が見えていない人」(ハーバー)と「実装の真実だけ見ている人」(ボッシュ)を、別人として組織に置き、判断権限の境界を引く。研究は研究で勝たせ、実装は実装で勝たせる。両者は対等に取引する。

もうひとつは、それをやらないやり方である。研究者にそのまま実装を続けさせる、もしくは、実装者にそのまま研究の判断をさせる。多くの場合、これはうまくいかない。研究者は工場の制約を見落とし、実装者は化学平衡の本質を読み違える。

BASF が1909年7月の実演の場でやった「すぐに権利を取り、すぐにボッシュに渡す」という判断は、おそらくこのプロジェクトの設計のうち、技術以外で最大の発明だった。事業計画書を待たない。研究者に経営を任せない。実装者に全権を渡す。

それは、現代のスタートアップが Founder と Engineering Lead を分ける構造の、ずっと早い原型のように見える。

そしてもうひとつ、忘れない方がいいことがある。

ハーバー・ボッシュ法は、人類の食料の半分を作るのと同じ手で、戦争を1年延ばした。同じ装置が、肥料と火薬の両方を作る。同じ発明者が、ノーベル賞と毒ガスの両方を作る。同じ家族の中で、ひとりは栄誉に向かい、ひとりは庭で自分を撃つ。

技術はそれ自体に方向性を持たない。「どちらに使うか」は、技術選択の外側の判断であり、その判断の結果は、最も近い人間が最初に引き受ける。

ボッシュは1940年に亡くなる前年、ナチス政権下のドイツで、自分の発明が国民の食料を支えると同時に、同じ装置で作られた火薬がふたたび戦場へ向かうことを目撃している。1933年、彼はヒトラーに対し「ユダヤ人科学者を国外に追い出せば、ドイツの物理学と化学は100年後退する」と直接告げた、と複数の伝記が記録している。

ヒトラーは黙ってその場を立った。ボッシュはそれ以後、IG ファルベンの会長職から事実上外され、酒に逃げるようになった、と同僚は書き残している。

彼が支えた工場は、彼を必要としないまま、現在も世界の食料を作り続けている。

出典・参考資料

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