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36セントの球で発がん物質を止めた話 — ロサンゼルス貯水池に96百万個を浮かべた、転用のエンジニアリング

2015年8月、市長は最後の2万個を自分の手で投下した。新聞は「節水」と書いたが、それは表向きの目的だった。

ロサンゼルス市シルマー地区。山に挟まれた谷の底に、175エーカーの貯水池が一つある。市民33億ガロンぶんの飲み水を貯めている、市最大の貯水池。

2015年8月10日の昼、その水面が真っ黒だった。

直径10センチの黒いプラスチック球が、96,000,000個浮いている。表面が見えないほど、すきまなく敷き詰められている。市の水道電力局(LADWP)のチーフがその縁に立ち、市長エリック・ガルセッティが大きな段ボール箱から最後の2万個を勢いよく流し込んだ。テレビカメラが回り、その夜のニュース番組で全米に流れた。

翌日の見出しはほぼ全紙が同じだった。「干ばつ対策、ロサンゼルスが3億ガロンを節水」。

それは表向きの目的だった。

LADWP の技術者たちが本当に止めたかったのは、別の問題である。水の中で起きている、目に見えない化学反応。臭素と塩素が日光のもとで結びついて、ブロメートという発がん性が疑われる物質を作っていた。

そのブロメートを止めるために、エンジニアが借りてきたのは、空港の鳥よけ用の球だった。1個36セント。9600万個で3450万ドル。代わりに検討されていた固定カバーは2.5億ドルから3億ドル。約1/8の値段だった。

Mission:飲み水の中で勝手に走るブロメート

ロサンゼルス貯水池の水は、シエラネバダ山脈から長い導水路を経て、ここに溜められる。市民の蛇口に届くまでの最後の保管庫であり、消毒のための塩素もここで投入される。

その塩素が、問題だった。

原水のなかには、ごく微量の臭化物(ブロマイド)がもともと溶けている。海水起源の地下水や、農業排水を経由して入ってくる。ふだんは害にならない量だ。

しかし塩素を入れた水が日光に晒されると、ブロマイドはブロメート(臭素酸塩)に酸化される。ブロメートは、米国環境保護庁(EPA)と国際がん研究機関(IARC)の両方で「ヒトに対する発がん性の可能性あり」に分類されている。飲料水中の規制値は、米国基準で10マイクログラム/リットルである。

EPA は2006年に Long Term 2 Enhanced Surface Water Treatment Rule、通称 LT2 ルールを公布した。これによって全米の飲料水貯水池には「物理的なカバー」あるいは「処理済水としての追加処理」のいずれかが義務付けられた。理由は単純で、消毒副生成物(DBP)を作らせない、原水を雑菌・鳥糞・粉塵から守る、という二点である。

ロサンゼルス貯水池に課された宿題は、つまりこういう形だった。

「175エーカーの水面に、なんらかの物理カバーを乗せろ。それで EPA の規則に従い、同時にブロメート発生を抑えよ」

固定式のフローティングカバーを設置すれば、技術的には解決する。だが見積もりは2.5億〜3億ドル。耐用年数は数十年とはいえ、初期投資は重い。LADWP は20年以上前から、もっと安い方法はないかと社内で温め続けていた。

Design:空港にあった「鳥よけの球」を、水道に流用する

2007年頃、LADWP の生物学者ブライアン・ホワイトは、ある記事を読んでいた。空港の池や貯水池で「バードボール」と呼ばれる小さな浮き球が、何十年も前から使われている、というものだ。

バードボールは、滑走路脇の池に水鳥が降りないようにするための、HDPE(高密度ポリエチレン)製の中空球である。水面を埋め尽くすことで、鳥が着水できる場所をなくす。航空機との衝突(バードストライク)防止のために、北米とヨーロッパで広く採用されていた。

ホワイトはそれを見て、別のことを考えた。鳥を防ぐ球は、同時に日光も防ぐのではないか。

ブロメートは、塩素+臭化物+UV の三役そろい踏みで初めて発生する。塩素は消毒のために抜けない。臭化物は原水起源で抜けない。ならUV だけ抜けばいい。水面に不透明な何かを浮かべて、紫外線を遮ればいい。

LADWP は2008年、シルバーレイクの近くにあるアイヴァンホー貯水池(容量約7.95億ガロン)で約40万個を試験投入した。結果は速かった。マーティ・アダムス(当時 LADWP の主任エンジニア、後の総支配人)は後年の取材でこう振り返っている。「They knocked out the problem immediately(連中はあっという間に問題を片付けた)」。

ブロメートは検出限界以下まで落ちた。

ここから話は速い。

アイヴァンホーで成功した同じ球を、LADWP は段階的にエリシアン、アッパー・ストーンキャニオンの計3つの小規模貯水池に展開する。合計約320万個。これが2009年から2013年。

そして2014年から、本丸である175エーカーのロサンゼルス貯水池に、初の大規模投入が始まる。

球の仕様は、空港用のバードボールとほぼ同一だった。直径4インチ(約10センチ)、HDPE 製、カーボンブラックを混ぜて黒く染め、紫外線で劣化しないようにする。中には少量の水を入れて重しとし、強風で吹き飛ばないようにする。1個36セント。

96,000,000個。総額3,450万ドル。

代替案だった固定カバーの、ざっと8分の1から9分の1である。

Execution:1年で水面を覆う

96百万個という数字は、見ただけでは実感が出ない。ひとつ翻訳しておく。

成人男性の靴のサイズの箱に、4インチ球は2つしか入らない。これが96百万個。直径10センチの球を一列に並べると、9,600キロメートル。東京からロサンゼルスまでの直線距離より長い。

これを、175エーカー(71万平方メートル)の水面に展開する。水面1平方メートルあたり135個。

製造は単一の業者では追いつかなかった。LADWP は Artisan Screen Printing、XavierC、Orange Products の3社に分散発注している。9,600万個のうち8,900万個以上を Artisan が、640万個を XavierC が引き受けた。各工場が同じ仕様の球を生産し、トラックで現場に運び、貯水池の縁から「滝のように」流し込む。

最終投入の風景は、2015年8月10日の動画で残っている。10数台のトラックが縁に並び、後部の段ボール箱から黒い球がカスケード状に水面に落ちる。すでに敷き詰められた球の上に新しい球が乗り、波紋のように広がる。最後の2万個を投げ入れたのは市長エリック・ガルセッティ本人。テレビカメラの前で、「3億ガロンを節約します」と宣言した。

ここで歪みが始まる。

LADWP の主目的は、繰り返すが、ブロメート抑制と EPA LT2 ルールへの対応だった。だが報道は、その時カリフォルニアを襲っていた2011年から続く大干ばつと結びつけた。「ロサンゼルスが水を救う黒い球」という見出しが、CNN にも BBC にも New York Times にも並んだ。

蒸発量の削減は、LADWP の試算で85〜90%。年間約3億ガロン(約113万立方メートル)。市民8,100人の年間飲料水に相当する。これは事実だ。だが、それは副次効果だった。主目的ではない。

主目的と副次効果の順番がメディアでひっくり返った瞬間、このプロジェクトはもう、技術プロジェクトではなく干ばつのアイコンになる。

工期の話を一つ整理しておく。

アイヴァンホーでの試験投入は2008年。本丸のロサンゼルス貯水池への投入は2014年8月から2015年8月の約1年。製造ラインの拡張と現場の物流が律速だった。LADWP の社内文書には「想定通り」と書かれている。建設プロジェクトとしては、ほぼスケジュール通りに、ほぼ予算通りに完了した。

予算超過なし、納期遅延なし、現場事故なし。

公共事業の中では、むしろ異例なほど静かに終わった。

People:鳥を防ぐ男が、発がん性物質を止めた

ブライアン・ホワイトについて、メディアに残る情報は少ない。LADWP の生物学者で、貯水池の水質管理を担当していた。バードボールの記事を読んだとき、彼が何歳だったかは公開記録に出てこない。発案後しばらくして退職したらしいが、退職年も公にされていない。Veritasium のドキュメンタリーには、貯水池の縁で球を眺める白髪の男性として一瞬だけ映る。

彼が解いた問題は、化学者の問題でもなければ土木技術者の問題でもなかった。「別の業界で20年前から大量生産されている既製品を、目的を変えて使えば、新規開発はゼロでいい」という、物流と転用の問題だった。

そのことを、本人は強く主張していない。LADWP の広報も、特許化していない。バードボールメーカー側もとくに新規市場を開拓しているわけではない。発想の主役は、退職した一人の生物学者の中にだけ残った。

マーティ・アダムスは別の役回りだ。LADWP のエンジニアリング部門で長年シニアの立場にあり、最終的にゼネラルマネージャーまで上り詰めた人物。シェードボール計画のプロジェクトマネージャーとして対外的な発信を引き受けた。彼が記者会見で繰り返し言ったことは、ほぼ一貫している。

「これは節水のためではない。発がん物質の生成を止めるためだ。節水は、ついでだ」

その正確な説明は、ほとんどの記事の本文には載った。だが見出しには載らなかった。

エリック・ガルセッティは当時44歳。スタンフォードとオックスフォードで学んだ歴史家・政治学者で、2013年からロサンゼルス市長を務めていた。2015年8月10日の完了式典で、彼が最後の2万個を箱から流し込む写真は、その後彼の任期を象徴する一枚となる。同年12月、Time 誌は「2015年の干ばつの顔」として彼を取り上げた。

技術者は規制対応として球を使った。市長は干ばつ対策として球を見せた。記者は節水の象徴として球を書いた。同じ96百万個の球が、3つの違う物語を同時に演じていた。

Legacy:3つの貯水池からは球が消え、Imperial College が「水の収支は赤字」と発表する

ロサンゼルス貯水池に96百万個が投入されてから2年後、カリフォルニアの大干ばつは公式に終結する。2017年。同じ年、LADWP は最初の試験場であるアイヴァンホー貯水池から、シェードボールの撤去を始めた。

撤去の理由は単純で、アイヴァンホーの規模ならフローティングカバー(固定式の浮体カバー)を載せたほうが長期コストが安い、という再計算の結果だった。エリシアンとアッパー・ストーンキャニオンからも順次撤去された。2026年現在、初期に展開された3つの貯水池からはすべてシェードボールが消え、固定カバーに切り替わっている。

残っているのは、ロサンゼルス貯水池ただ一つ。

理由は、175エーカーには載せられる固定カバーが事実上存在しないからである。シェードボールが「最善」だからではなく、他の選択肢が「もっと高すぎる」からだ。

そして2018年7月、Imperial College London、ストックホルム大学、トウェンテ大学、シンガポール国立大学の共同研究チームが、シェードボール計画のライフサイクル評価論文を Nature Sustainability に発表する。

論文の試算はこうだった。

96,000,000個の HDPE 球を製造するには、原料の石油・天然ガス、製造工程の電力、すべての上流を含めると、約290万立方メートルの水が消費される。一方、ロサンゼルス貯水池に展開している期間中に蒸発から救った水は、115万立方メートル(同チーム試算)。

純水収支はマイナス175万立方メートル。

「節水のための投資」と理解した場合、このプロジェクトはペイバックに約2.5年が必要、と論文は結論づけた。共著者のカベ・マダニ博士は、コメントでこう述べている。

「我々は素早い技術的解決が得意だが、その長期的・二次的影響を見落としがちだ」

ただし、と彼は続けている。「シェードボールが悪いと言っているのではない。環境コストを便益と一緒に評価するべきだ、と言っているだけだ」

LADWP はこれに対する反論を一度も公式には出していない。なぜなら、彼らの主目的はそもそも節水ではなかったからだ。ブロメート対策と LT2 規制対応として見れば、3,450万ドルは固定カバー2.5億ドルの代わりに安く済んだ規制対応投資である。その評価軸では、依然としてプロジェクトは黒字だ。

しかし「節水のプロジェクト」と理解した世間にとっては、論文は失望に見えた。

その失望を修正したのは、論文ではなく1本の YouTube 動画だった。2019年5月、サイエンス系チャンネル Veritasium のデレク・ミューラーが、自分でボートを漕いで黒い球の海の上に乗り出し、現場でマーティ・アダムスに「なぜこの球を浮かべたのか」を直接問うた。動画タイトルは「Why Are 96,000,000 Black Balls on This Reservoir?」。

その動画で初めて、ブロメートの化学式が一般視聴者に説明される。臭化物に塩素を入れ、UV を当てるとブロメートになる。シェードボールが遮るのは UV だけ。アダムスはホワイトボードに反応式を書きながら、「これは節水のためではない」と何度も言い直した。3,200万回以上再生された。LADWP が4年前にやれなかった広報を、サードパーティの教育系 YouTuber が代行した形である。

ただし、その時点では小規模3貯水池からの撤去はすでに進んでいた。世間が主目的を理解する頃には、プロジェクトはピークを過ぎていた。

学び:主目的の説明をサボると、副次効果が主役にされる

LADWP のシェードボール計画は、技術的にはほぼ完璧に終わったプロジェクトである。予算内、納期内、事故ゼロ、ブロメート目標達成。EPA の規制クリア。耐用年数10年で、現在も主力施設で運用継続中。

それでも世間の評価は、おおむね「思ったほどではなかった」という色を帯びている。

理由は、技術ではない。説明だ。

LADWP は、自分たちのプロジェクトについて、3種類の説明を用意していなかった。技術者向け(ブロメート対策)、規制当局向け(LT2 対応)、市民向け(節水)。3つの目的のうち、市民向けの説明だけが拡散し、そこで成果を測られた。

副次効果(節水)が主役にされた瞬間に、本来の主目的(ブロメート対策、規制対応)は記憶から消える。その状態で4年後に「節水としては赤字だった」という研究論文が出ると、プロジェクト全体が失敗扱いされる。

これは技術プロジェクト全般に共通する話だ。

ロケットの再使用化(SpaceX)は本来は「打ち上げコストを下げる」ことが主目的だった。だが報道は「火星移住」を主役にした。後者で評価されると、本来の進捗が見えなくなる。

電気自動車(EV)は本来「都市部の大気汚染とエネルギー安全保障」が主目的の地域もあった。だが「気候変動対策」のシンボルにされた瞬間、ライフサイクル CO₂ で測られて、欧州の一部メディアでは「思ったほど環境にやさしくない」と書かれた。

主目的の選び方を間違えたわけではない。主目的を一つに選んで説明する義務を、サボったのだ。

LADWP がもしも2015年8月10日のセレモニーで、市長に「これは飲み水の発がん物質を防ぐ装置です。固定カバーの1/8で済みました」と言わせていたら、Imperial College の論文が出たあとも世間の評価は変わらなかったかもしれない。だがそう言わせなかった。「3億ガロンを節水します」と言わせた。

技術プロジェクトのチームは、しばしばこの罠に落ちる。

技術者は、自分たちの内側にある「ほんとうの目的」を、外向きには分かりやすく翻訳しすぎる。翻訳された言葉は、技術者本人より長く生きる。気がつくと、翻訳された言葉が外側の評価軸になっていて、本来の評価軸はもう誰も覚えていない。

LADWP は、3,450万ドルで規制をクリアし、副生成物を消し、ついでに干ばつのシンボルを得た。だが**「シンボル」を主張した瞬間に、技術プロジェクトとしての評価権限を手放した**。

それは、たぶん、安く済んだ規制対応投資の、見えない代償である。

96,000,000個の球は、いまも175エーカーの水面に浮いている。来年から再来年にかけて、初期投入分の寿命が来る。LADWP は静かに、同じ仕様の球を同じ業者から買い、同じ縁から流し込むだろう。

そのとき、もう市長は箱を持って立たないかもしれない。

出典・参考資料

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Project Timeline