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ノートルダム大聖堂 — 2019年に焼けた尖塔は、12世紀のものではなかった

2019年4月15日、テレビ中継で世界が見たノートルダム大聖堂の尖塔が崩れ落ちた。多くの人が「12世紀の中世建築が失われた」と感じた。

実際には、あの尖塔は19世紀のものだった。

ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが1859年に再建した、ネオゴシック様式のフレーシュ。高さ96m。元の中世の尖塔は1786年に老朽化で撤去されていた。19世紀の建築家が「中世にあったはずの姿」を想像で作り直したもの。

それが155年経って、火災で消えた。

2024年12月に再オープンしたノートルダムの新しい尖塔は、ヴィオレの19世紀復元を、21世紀の職人が再現したものだ。19世紀の想像を、21世紀が忠実に再現する。中世から数えて、書き換えは2回重なっている。

建物は維持されているのではない。絶え間なく書き換えられている。

Mission:なぜ建てたか

1163年、パリ司教モーリス・ド・シュリー。

シテ島の旧サン=テティエンヌ大聖堂は老朽化していた。シュリーはそれを取り壊し、新しいゴシック様式の大聖堂を建てる構想を立てた。サン=ドニ修道院で実験されていた新しい建築言語を、パリの中心で大規模に試す試み。

礎石を据えたのは、教皇アレクサンデル3世とフランス王ルイ7世。1163年の3月から4月の間。

シュリーはクリュニーの貧しい家に生まれた。司教としては晩成型で、36年間その地位にあった。建設は彼の任期中、ずっと続いた。

彼は完成を見ずに死ぬことを知っていた。それでも構わなかった。司教の役割は、自分の代で何を完成させるかではなく、何を始めるかだった。

Design:設計者の名前が残らない大聖堂

ノートルダムを設計した人の名前は分かっていない。

最初の主任建築家、第2フェーズの建築家、第3フェーズの建築家。いずれも匿名で記録に残らなかった。同時期に建てられたシャルトル、ランス、アミアン、いずれの大聖堂でも、初期の建築家の名前は失われている。職人ギルドの内部知識として、設計の継承は機能していた。

長さ127m、幅48m、ヴォールト天井33m。当時の他のゴシック大聖堂より8m以上高い。建築史上、ある建物が前世代から飛躍した相対的な高さの差として、これが最大記録だった。

問題は、その高さを支えるための壁を薄くしなければならなかったことだった。光を入れるためのステンドグラスを大きくしたかった。すると、ヴォールトの重さで壁が外側に押し出される。完成前に壁にクラックが入り始めた。

1180年頃、フライング・バットレスが導入された。

建物の外側に、空中に張り出すように突き出したアーチ。ヴォールトの横推力を受け止めて、地面に流す。当初の設計にはなかった構造を、問題発見後に追加した。最初期の大規模実装だった。

これがゴシック建築の標準になる。シャルトル(ヴォールト37m)、ランス(38m)、アミアン(42m)。各大聖堂が前のものを超える高さに挑戦した。

ボーヴェ大聖堂は1225年に着工し、48mのヴォールトを目指した。1284年11月29日、部分崩壊した。後に「イカロス大聖堂」と呼ばれることになる。

ノートルダムの33mは、限界を試した最初の一歩だった。

Execution:182年の建設

完成したのは1345年。着工から182年後。

工期を最初に見積もった人はいない。各世代の司教が、その時代の資金と技術で、できる範囲を進めた。少なくとも8人の司教が継承した。職人の世代で言えば6世代以上。

4つのフェーズに分かれていた。第1フェーズで聖歌隊席(1177年)、続いて1182年に主祭壇が奉献。第2フェーズで身廊と西ファサード(1250年頃)。第3フェーズで側廊の礼拝堂群と、ライバル大聖堂に追随した改修。第4フェーズで南北のトランセプトと薔薇窓。

1250年、ジャン・ド・シェルが北トランセプトを延長し、北の薔薇窓を設計。1270年、ピエール・ド・モントルイユが南の薔薇窓を完成。彼らは13世紀後半に最先端だったラヤン式ゴシック様式を持ち込んだ。100年前のシュリーの計画には、こんな様式は存在しなかった。

14世紀には、ジャン・ラヴィが13世紀のフライング・バットレスを根本的に再設計した。15mのスパンを持つ新型14本を、聖歌隊席の周囲に配置。

182年の間に、設計は何度も上書きされた。当初の計画書があったとしても、最終形とは別物だっただろう。同じ「ゴシック様式」というルールに従いながら、各世代が同時代の最善を持ち込んだ。

それを許す設計思想が、建物を作り続けた。

People:滅びかけては救われた

1789年、フランス革命。

1793年10月、革命派が西ファサードの彫像を引きずり下ろした。「ユダ王の回廊」に並ぶ28体。聖書のユダヤ王たちだが、フランス王の偶像と誤認され、ロープで地面に倒され、広場で斬首された。

同年11月、ノートルダムは「理性の崇拝」の神殿に転用された。鐘21個のうち20個が大砲鋳造のため溶解。鉛棺は弾丸に変えられた。亡命貴族から押収した1,500樽のワインが堂内に保管された。

1804年12月2日、ナポレオン戴冠。

建物は廃墟同然だった。3ヶ月かけて漆喰・木・段ボール・絹で「装飾」され、ナポレオンが自ら冠を戴いた。式典のための仮装。本来の修復ではない。

1831年、ヴィクトル・ユゴーが小説『ノートル=ダム・ド・パリ』を発表した。29歳。ベストセラーになり、大聖堂の荒廃と、それを救うべきだという訴えが、フランス国民に行き渡った。

1844年、ルイ・フィリップ王が復元を命じた。選ばれた建築家は30歳のウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクと、共同のジャン=バティスト・ラシュス。

ヴィオレは20年かけて、ノートルダムを「あるべき姿」に作り変えた。

予算は申請の68%に削減され、途中で資金が尽きて8年間中断した。ラシュスは完成前に死んだ。ヴィオレは聖歌隊席の上に、1786年に撤去されていた中世の尖塔を「想像で」再建した。高さ96m、ネオゴシック様式。革命で斬首された王の回廊も、新しい彫像で再現した。屋根のキマイラも、彼のオリジナルだ。

聖トマス像(建築家の守護聖人)の顔は、ヴィオレ自身の顔をモデルにした。

1864年、復元完了。

ヴィオレの哲学は、彼の『建築事典』に残されている。

「修復するとは、建物を、ある時点にも存在しなかった完全な状態に再構築することである」

中世にも、革命前にもなかった「ノートルダムの完全な姿」を、19世紀の建築家が創造した。それが155年経って、世界が「中世の傑作」として認識する姿になった。

Legacy:2019年と2024年

2019年4月15日、月曜日。18:18。

ノートルダムの警報が鳴った。職員の引き継ぎが混乱していた。3日前に着任した警備員が、別の警備員に屋根裏の確認を指示した。確認に行った警備員は、隣接する聖具室の屋根裏を見て「火災なし」と報告した。本当の火災は大聖堂本体の屋根裏で起きていた。

30分以上が失われた。

18:51、消防隊が呼ばれた。18:52、外から屋根の煙が見えた。屋根裏の木造小屋組み、通称「ラ・フォレ(森)」。12世紀後半から13世紀にかけて伐られた樫材、約1,300本。800年間乾燥し続けた木材は、火が回るのに数分しかかからなかった。

19:50、ヴィオレの尖塔が崩れ落ちた。テレビが世界に中継した。

21:45、火は制御下に入った。翌朝4時、完全に鎮火した。屋根の半分と尖塔は失われていた。

奇跡だったのは、内部の被害が限定的だったことだ。13世紀の建築家が想定していなかったことが起きた。石造ヴォールトの上に、燃え落ちる屋根の質量が落ちてきた。ヴォールトはそれを受け止めた。冗長性のある設計が、800年後の火災から内部を守った。

その日の夜のうちに、ピノー家が€100M、アルノー家が€200M、ベタンクール家が€200M。フランスの3大富裕家族が、火災当日に€500M超の寄付を表明した。

翌日、マクロンが「5年で再建する」と宣言した。

2020年7月、国家文化財委員会が判断を下した。火災前の姿に忠実に復元する。マクロンは当初、現代的な尖塔を含む国際設計コンペを示唆していた。専門家委員会は全会一致でそれを退けた。マクロンは判断に従った。

「火災前の姿」とは、ヴィオレの19世紀復元のことだ。19世紀の想像を、21世紀が忠実に再現する。

2,000人の職人、250社、68工房、15職種が動員された。「ゴシック技術は失われた」という懸念は外れた。フランス国内の伝統職人が、まだ十分に残っていた。樫材は150〜300年の樹齢の国有林から伐られ、石灰岩はオワーズ地方で切り出された。

2024年12月7日、再オープン。マクロンの公約から約8ヶ月遅れだった。約1,500人が参列し、40カ国の首脳が出席した。ローラン・ウルリッヒ大司教が、焼失した屋根の木材から作られた杖で扉を叩いた。

寄付は€846Mが340,000人から集まり、150カ国に及んだ。€140Mの余剰は、フェーズ3としてファサードや聖具室の修復に回された。

学び

2019年に焼けたのは、19世紀の尖塔だった。

2024年に再建されたのは、21世紀が再現した19世紀の尖塔だ。中世の本物は、1786年に撤去されている。誰も実物を見たことがない。

ノートルダムを構成する物質のうち、12世紀に遡れるものは半分以下だろう。13世紀のフライング・バットレスは14世紀に作り替えられ、革命で破壊された彫像は19世紀に新造され、19世紀の尖塔は21世紀に再現された。これだけ書き換えが重なっても、人々は「同じノートルダム」と認識する。

物質的な同一性ではない。空間と意味の連続性だ。

「オリジナル」は問いとして成立しない。いつのオリジナルかを最初に決めなければ、答えがない。中世の最初の姿か。完成時の1345年の姿か。革命前の1789年の姿か。ヴィオレの1864年の姿か。火災前の2019年4月14日の姿か。

2020年7月の専門家委員会は、選択肢から「火災前」を選んだ。それは19世紀の復元のことだ。中世ではない。

修復は例外ではなく常態だ。

ノートルダムが861年残ったのは、絶えず修復され続けたからだ。設計者の名前が残らない大聖堂は、各世代が同時代の解釈を持ち込むことを許す。フライング・バットレスはクラックが入った後に追加で導入された。ヴィオレは中世にはなかった尖塔を「あるべき姿」として創造した。マクロンは火災翌日に5年で再建すると宣言した。

それぞれの判断は、当時の事情に基づく合理性だった。当時の合理性は、後世から見ると恣意性に見える。19世紀の建築家が想像した中世が、現代のノートルダムの正典になっている。

長く生きるものは、必ず複数の解釈の地層を持つ。

あなたが今作っているものが861年残るとしたら、どの世代の解釈が「正典」になるだろうか。それは、あなたが今書いている設計図とは、おそらく違うものだ。

出典・参考資料

Project Timeline