1941年2月、オックスフォードのラドクリフ病院に、43歳の警官が運ばれてきた。
アルバート・アレキサンダー。庭のバラの棘で頬をひっかき、そこから細菌感染が全身に広がった。抗生物質のなかった時代の、ありふれた死因だった。顔は膿でふさがり、片目を摘出。次は反対側だった。
その病院では、街の反対側にあるダン病理学教室のハワード・フロリーというオーストラリア人が、新しい薬の人体試験を始めようとしていた。ペニシリンという名前。前年、マウスで効いた。
アレキサンダーに最初の投与を始めた翌日、症状は劇的に改善した。ただし、薬が足りない。ダン教室の全在庫を24時間で使い切ったあとも、まだ回復途上だった。
チームはアレキサンダーの尿からペニシリンを回収した。体外に排出されたわずかな量を、もう一度精製して投与に回す。5日目、それも尽きた。
3月15日、アレキサンダーは死亡した。
その3か月後、フロリーは大西洋を渡る。米国イリノイ州ピオリア。人口 10 万の農業都市に、農務省の研究所があった。目的地はそこだった。
Mission:D-Day までに間に合わせろ
1928年9月、ロンドンのセント・メアリー病院で、アレクサンダー・フレミングは休暇から戻った机の上に、汚染された培養皿を見つけた。ブドウ球菌のコロニーのあいだに、青緑のカビが1点だけ生えていて、そのカビの周囲だけ細菌が消えている。彼はこれを写真に撮り、翌年『英国実験病理学誌』に短報を投稿した。
論文は簡潔で、当時としてもよく書けた記述だったが、実用化の展望はほとんど書かれていなかった。フレミング自身、単離と濃縮を諦めていた。研究者としての彼の関心は、免疫学的な観察のほうにあった。
論文は10年間、ほぼ引用されなかった。
1938年、オックスフォードでフロリーとエルンスト・チェーンがそれを掘り起こす。チェーンはナチス・ドイツから亡命したユダヤ系生化学者。ロックフェラー財団の助成金で、抗菌物質の系統的スクリーニングをしていた。フレミングの10年前の論文が、リストのなかにあった。
1940年5月25日、フロリーとチェーンはマウス実験を行う。ペニシリン投与群4匹全員生存、対照群4匹全滅。彼らはこの結果を『ランセット』に投稿する。
翌年、アレキサンダー巡査が死ぬ。
1941年12月、米国が参戦する。戦時医療のスケールが根本から変わる。第一次大戦の記録によれば、負傷兵の死因の18パーセントは細菌感染だった。血液感染、腹膜炎、術後の敗血症。抗生物質がない世界では、負傷して生き延びても、そのあとの1週間で死ぬ確率が2割近くあった。
米国戦時生産局(War Production Board、以下 WPB)が計算したのは単純な話だ。次の欧州上陸作戦で、負傷兵の感染死を半分にできれば、動員可能な兵員が数十万単位で変わる。
ペニシリンは、この計算のなかで軍事物資として再定義された。
1942年、米国科学研究開発局(OSRD)は「D-Day までに投与単位で数百万を確保する」という目標を立てる。目標が発表された時点で、米国の年間生産能力は数万投与量。3桁足りなかった。
WPB は米国内 175 社の製薬企業を審査し、21 社を選定する。選ばれた企業には建設資材と労働力の優先配分権が与えられた。同時に、企業間の製法情報を政府が仲介して共有させる。特許で企業を守る通常の産業政策を、戦時中は凍結する判断だった。
肥料工場を4年で立ち上げた ハーバー・ボッシュ法 が国家安全保障の産物だったのと同じで、ペニシリン工業化も国家が要件定義した緊急プロジェクトだった。違いは、こちらは特許を最初から放棄していたことだ。
Design:カビは工場で育たない
ハワード・フロリーとノーマン・ヒートリーがオックスフォードでやっていたのは、実装というより、料理に近かった。
Penicillium notatum を平たい培養皿に薄く広げ、表面で1週間ほど育てる。液体培地の表面にカビが薄膜を作る。その下の液を吸い出し、ペニシリンを分離する。溶媒を変えながら数段階の抽出を経て、粉末にする。
ヒートリーは28歳の生化学者。1940年、この工程の最大のボトルネックが「表面積の広い平らな容器」だと気づく。実験室のガラス皿では足りない。彼が最終的にたどり着いた解決策は、ラドクリフ病院の陶製ベッドパンだった。便器である。
底が平らで、口が広く、加熱滅菌できる。ヒートリーは陶器メーカーに専用サイズを発注し、ダン教室に約 700 個ならべた。フロリーのチームは自分たちを「ペニシリン養殖業者」と呼ぶようになる。全員白衣で、ベッドパンから液を吸い出す作業を続けた。
これがアレキサンダー巡査に投与された 1941 年時点の生産設備である。
問題は明らかだった。表面培養は、体積が増えても表面積が同じ比率で増えない。1リットルの培地で作れる量と、100 リットルの培地で作れる量は、単純に 100 倍にはならない。カビが空気に触れる表面積だけが利くから、深いタンクにしても意味がない。
工業化するには、Penicillium がタンクの底まで潜って育つ必要があった。
ピオリアの米国農務省北部地域研究所(NRRL)は、発酵の研究所である。トウモロコシ、大豆、酪農廃棄物から工業原料を作る仕事を、長年やっていた。ビール、ワイン、パン、チーズ。深いタンクで微生物を育てる知識と設備が、そこに眠っていた。
フロリーが持ち込んだ Penicillium notatum は、深いタンクでは育たなかった。カビが底に沈み、酸素不足で活動を止めた。
NRRL の微生物学者アンドリュー・モイヤーは、2つの変更を試す。
ひとつ、培地の変更。フロリーが使っていた培地は、酵母エキスと糖を混ぜたもので、実験室では標準だが工業スケールでは高価すぎた。モイヤーは代わりにコーンスティープリカーを試す。これはトウモロコシから澱粉を取ったあとに残る、酸っぱい液体で、当時の中西部では製紙工場と食品工場が処理に困っていた廃液に近い扱いだった。
投入した結果、生産量がおよそ 10 倍に跳ねた。廃液は栄養として最適だった。
ふたつ、菌株の変更。フレミングが偶然拾った Penicillium notatum は、実は工業株としては弱かった。NRRL は「地元の腐った果物や野菜から Penicillium を集めろ」と技官に指示する。1943 年、研究所助手のメアリー・ハントがピオリア市内の市場で買った腐りかけのカンタロープメロンから、Penicillium chrysogenum の 1 株が分離された。「NRRL 1951」と登録されたこの株は、フレミング原株のおよそ 200 倍の収率を示した。
社内で彼女は “Moldy Mary” と呼ばれた。市場を歩き回っては、いちばん腐ったやつを買って帰る人。現在、世界で使われている工業用ペニシリン株のほとんどは、彼女があの日に買ったメロンの子孫である。
Execution:210億から6.8兆へ
深部発酵の技術と菌株が揃った時点で、まだ工場はない。1943年時点の米国全体の年間生産量は 210 億単位。1回の重症感染症治療に必要な量が数百万単位だから、年間で数千人分にしかならなかった。
D-Day は 1944 年 6 月。残された時間は 15 か月。
WPB は 21 社に、深部発酵タンクの建設を並行で走らせる。設計図と菌株と培地レシピは全社で共有された。建設資材、労働力、輸送優先度は連邦政府が調整した。「あなたの会社はこの反応器を、あそこの会社はあの精製プラントを」という配分は、戦時産業ボードの仕事だった。
ファイザーは、当時ブルックリンで柑橘系のクエン酸を発酵で作っていた中堅企業である。医薬品企業ではなかった。だが深部発酵の知見が社内にあった。1943年9月、ブルックリンの旧ルーベル製氷工場を買い取り、内部を改装する。3 か月で 14 基の発酵タンクを設置した。1 基あたり 7,500 ガロン(約 28 立方メートル)。真夏に肉屋で買った氷を作っていた場所が、翌冬にはペニシリンを作っていた。
1944 年 3 月、ファイザーのブルックリン工場が本格稼働する。同社は開戦後3年で、戦時中の全米生産量の半分以上を出した。
深部発酵の運転そのものも、料理に近い部分が残っていた。タンクごとに、収率にばらつきが出た。同じ菌株、同じ培地、同じ温度、同じ攪拌速度でも、なぜかあるタンクだけ 3 割落ちる、というようなことが起きる。原因は数年後にようやく分かった。攪拌翼の周囲の乱流が微生物に与えるストレスが、菌株ごとに違う。実験室では見えない変数だった。
各社は毎週、生産データを WPB に報告した。低い数字が出た工場には、他社のプロセスエンジニアが派遣された。ライバル企業の技術者が、自社の秘密のはずのタンクを覗きにきて、翌週には別の工場の改善に使われる。戦後、この慣行は消える。だが 1943 年から 1945 年までは、それが標準だった。
生産量の推移は次のようになる。
- 1943 年: 210 億単位
- 1944 年: 1.66 兆単位
- 1945 年: 6.8 兆単位
2 年で 324 倍。この曲線は、20 世紀のどの産業のスケーリング曲線を並べても、ほぼ最上位に来る。
D-Day の 1944 年 6 月 6 日、米陸軍は上陸部隊に 230 万投与量のペニシリンを持たせていた。前線の野戦病院で、感染死が実際に減った。第一次大戦で 18 パーセントだった負傷後の死亡率は、第二次大戦の後半に 4 パーセントを切る。抗生物質だけの効果ではないが、支配的な変数だった。
1943 年 7 月、ペニシリン 1 投与量は 20 ドル。当時の米国労働者の週給を超えた。1946 年、0.55 ドル。3 年で 36 分の 1。1949 年には 10 万単位あたり 10 セントを切る。
工業スケールが 100 倍を超えて動くと、単価はしばしば桁で落ちる。ペニシリンはその教科書的な例になった。
People:発見者、実装者、そして誰でもない人
アレクサンダー・フレミングは 1881 年、スコットランドの農家に生まれた。ロンドンでセント・メアリー病院医学校を出て、そのまま同院に残る。第一次大戦では従軍し、負傷兵の細菌感染死を大量に見た経験がある。
1928 年 9 月、47 歳のフレミングが夏休みから戻ると、机の隅の培養皿に例のカビが生えていた。以後 10 年、彼はペニシリンの臨床応用に本気で取り組まなかった。単離技術がなく、自分の手には負えないと早い段階で判断した。1940 年代の工業化にも直接は関与していない。
彼が公の場に現れるのは 1944 年以降である。米英のメディアはペニシリンの成功を、複雑な工業化プロジェクトとしてではなく「フレミングの奇跡の発見」として報じた。実際に工業化を指揮したフロリーやチェーンやモイヤーは、名前を報じられることが少なかった。フレミング自身は繰り返しインタビューで「フロリーの功績が大きい」と発言している。
ハワード・フロリーは 1898 年、オーストラリア南部のアデレードで生まれた。オックスフォードのローズ奨学生。40 歳でダン病理学教室のリーダーになる。1940 年のマウス実験、1941 年のアレキサンダー巡査、同年の渡米。連続する意思決定を、ほぼ独力で回した。
フロリーは特許取得を最後まで拒んだ。英国医学界には「医学的発見の商業化は医療倫理に反する」という強い伝統があり、彼はその立場を代弁した。オックスフォードの技術移転オフィスが助言したにもかかわらず、英国側は特許出願をしなかった。
1945 年以降、米国企業のいくつかが独自の製法特許を米国内で取得する。フロリーはこれを生涯憤慨した。彼の伝記作家は、フロリーが 1949 年に英国の医学ジャーナリストに送った私信を引用している。「私たちが英国のためにやったことを、彼らは米国のために売った」。
ノーマン・ヒートリーは 1911 年生まれ、フロリーより 13 歳若い。1941 年の渡米にはフロリーに同行した。ピオリアで、彼は現地の技術者にオックスフォード方式を実演する仕事をした。1942 年秋に帰国。以後、工業化には関与せず、地味な生化学の研究を続けた。ヒートリーがオックスフォード大学から名誉学位を受けたのは、1990 年、彼が 79 歳のときである。ノーベル賞は制度上 3 人までしか受けられなかった。フレミング、フロリー、チェーンが選ばれ、ヒートリーは受賞していない。
アンドリュー・モイヤーは 1899 年生まれの微生物学者。ピオリアの NRRL で 30 年働いた地元の技術者だった。深部発酵法の特許(米国で 1948 年成立)は彼の個人名義で取得された。米国が英国の発明を持って行ったと批判されたときの象徴的な出来事だった。モイヤーは特許料をピオリアの研究所と個人で分けた。
彼は 1959 年、59 歳で死去する。プレス報道はほぼなかった。
メアリー・ハントは伝記が書かれていない。生年月日も出身地も、断片的な社内記録以外に残っていない。1943 年時点でピオリア NRRL の技官補、給与は年 2,000 ドル前後だったと推定されている。彼女が持ち帰ったメロンの Penicillium chrysogenum は、80 年後の今も世界のペニシリン生産の起点である。
Legacy:抗生物質時代の開幕と、その閉幕
1945 年 10 月、ストックホルム。ノーベル生理学・医学賞は、フレミング、フロリー、チェーンの 3 人に贈られる。
フレミングの受賞講演は 12 月 11 日。彼は聴衆に、ペニシリンの発見と実用化までの経緯を淡々と語った。ハーバーが 1919 年の受賞講演で毒ガスに触れなかったのとは対照的に、フレミングは講演の終わりで、聴衆が予想しなかった話を持ち出した。
しかし警告を一つ発しておきたい。実験室では、菌をペニシリンで殺せない濃度に晒し続けると、その菌にペニシリン耐性を教育することができる。同じことが、時々、人体でも起きる。ペニシリンを使うなら、十分な量を使え。
1945 年時点で、ペニシリン耐性の黄色ブドウ球菌はまだ臨床では珍しかった。5 年後、それは病院で最も一般的な問題になる。10 年後、耐性菌はペニシリン以外の抗生物質にも耐性を持ち始めた。フレミングの警告は正確に的中した。
工業化の成功が、耐性菌の淘汰圧を作った。ペニシリンが安価になり大量投与が普通になったから、菌にとって「ペニシリンに耐える」ことが生存戦略として合理的になった。1940 年代には奇跡だった薬が、1980 年代には効かない菌が半分になっていた。
抗生物質は、その後 30 年間で発見のペースが落ちる。製薬企業は 1980 年以降、抗生物質開発から撤退し始めた。理由は単純で、儲からない。抗がん剤や生活習慣病薬に比べて、抗生物質は投与期間が短く、耐性が出るたびに市場価値が落ちる。
2020 年代の現在、WHO は年間 130 万人が薬剤耐性菌で死亡すると推計する。2050 年には年間 1,000 万人に達する可能性が示されている。フレミングの受賞講演から 80 年、警告のシナリオそのままの数字が並ぶ。
もう一つの遺産は、産業構造のほうにある。
WPB が 1943 年に「特許凍結、情報共有、政府調達」で組んだプロジェクト構造は、戦後 5 年で解体された。1948 年以降、米国製薬企業はストレプトマイシン、テトラサイクリン、エリスロマイシンといった新規抗生物質を、通常の特許制度のもとで開発する。1950 年代、米国製薬業界は世界最大の R&D 支出産業になる。年間の医薬品支出は 1946 年から 1960 年で 5 倍以上に伸びた。
戦時中の特許放棄は、企業側から見れば「二度と繰り返してはならない例外」だった。特許で保護されない期間があった商品は、単価が桁で落ちて戻ってこない。ペニシリンで学んだ企業は、以後の抗生物質を絶対に公共財化させなかった。
2020 年、COVID-19 のワクチン開発で Operation Warp Speed が組まれたとき、米国政府は 1943 年の WPB モデルを部分的に参照した。買い上げ保証、リスクの政府負担、複数企業並行開発。だが特許は各社に残った。ペニシリンで一度だけ動いた「戦時の共有モデル」は、二度目は動かなかった。
学び:発見者は、実装者ではない
このプロジェクトでいちばん硬い学びは、これだと思う。
発見者と実装者は、別人である。そしてしばしば、実装者もまた別人にバケツを渡す。
フレミングは 1928 年に発見した。彼が引き受けたのはそこまでだった。単離と濃縮は自分の仕事ではないと早い段階で判断し、10 年間、論文が誰かに掘り起こされるのを待った。
フロリーとチェーンが 1938 年にそれを掘り起こす。マウス実験、臨床試験、精製法の開発。ここまでを彼らが引き受けた。だが工業化は自分たちの仕事ではなかった。1941 年、フロリーは大西洋を渡り、ピオリアの発酵研究所にバトンを渡す。
モイヤーとハントが引き受けたのは、実験室スケールから工業スケールへの技術転換だった。深部発酵、コーンスティープリカー、Penicillium chrysogenum。この 3 つが揃った時点で、彼らの仕事も終わる。
ファイザーとメルクと 21 社の製造技術者たちが、そこから量産にバトンをつないだ。ブルックリンの旧製氷工場で発酵タンクを回した現場エンジニアの名前は、記録に残っていない。彼らは自分たちを「ペニシリンの発見者」と呼ばなかった。
15 年、7 か 8 段階のリレー。誰も一人では成し遂げなかった。
このリレーがなぜ切れずに続いたかを、事後的に読み解くと、2 つの装置が効いていた。
ひとつは、フロリーの「自分の限界を早く認める」判断だった。1941 年、彼が渡米しなければ、英国内で細々と続けたペニシリン生産では、D-Day には間に合わなかった。フロリーは「私たちの技術は最善だ」と主張しなかった。「私たちの技術では足りない、米国の発酵工学に助けを求める」と決めた。優秀な人が優秀なままで留まると、次のリレーが起きない。
もうひとつは、WPB による特許凍結だった。個社ごとに「自社製法を秘匿する」インセンティブが働いていたら、21 社のリレーは組めなかった。戦時という「勝ち逃げ不可能」な状況が、個別最適の誘因を抑えた。
自分の仕事で、次のバケツを誰に渡すかを、私たちはしばしば選び損ねる。手放したくないから抱え込む。手放しても、隣の分野の人に渡さず、同じ分野の後輩に渡す。同じ分野の中でリレーを回している限り、ある技術ジャンプに達するには、ヒートリーがベッドパンでやっていたことを、いつまでも別の誰かがベッドパンでやり続ける。
ペニシリンの工業化は、医学界が発酵工学界にバケツを渡し、大学が農務省の地方研究所に渡し、実験室が食品廃棄物の再利用ネットワークに渡し、独立した個別企業が政府調整の共同事業体に渡した。分野境界を 4 回跨いだリレーだった。跨ぐたびに、律速だったボトルネックが別のものに変わり、そしてそのボトルネックを、新しい分野の既存資産が解いた。
たいていの技術ジャンプは、その分野の中には答えがない。隣の分野に既に答えがある。
ペニシリンの物語で、しばしば省かれる登場人物がいる。ピオリアの市場で買い物をする、給料の安い技官補である。彼女は自分の仕事の意味を、たぶん、当時は知らなかった。80 年後、彼女の名前が残っているのは、社内記録のなかだけである。
大規模プロジェクトの成否を決める人が、その時点で無名であることは、しばしばある。プロジェクトを設計する側から見れば、この事実には対応策がひとつしかない。
自分の分野の外に、誰がいるかを、知っておくこと。
出典・参考資料
- American Chemical Society「Discovery and Development of Penicillin」(National Historic Chemical Landmark) (https://www.acs.org/education/whatischemistry/landmarks/flemingpenicillin.html) — フレミング発見、Peoria NRRL の技術転換、コーンスティープリカー採用
- American Chemical Society「Penicillin Production through Deep-tank Fermentation」(https://acs.org/education/whatischemistry/landmarks/penicillin.html) — Pfizer Brooklyn 工場の詳細、深部発酵タンクの規格
- Science Museum (London)「How was penicillin developed?」(https://www.sciencemuseum.org.uk/objects-and-stories/how-was-penicillin-developed) — オックスフォード側の Heatley・Florey、ベッドパン培養、Mary Hunt のメロン
- National WWII Museum「Thanks to Penicillin…He Will Come Home!」(https://www.nationalww2museum.org/sites/default/files/2017-07/thanks-to-penicillin-lesson.pdf) — D-Day 供給計画(230万投与量)、戦時広報キャンペーン
- Nobel Prize Foundation「Sir Alexander Fleming – Nobel Lecture」(1945-12-11) (https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1945/fleming/lecture/) — 耐性菌警告の一次資料
- Society for History Education (Shao)「How the Mass Production of Penicillin Became Possible」(https://societyforhistoryeducation.org/pdfs/N24_Shao.pdf) — WPB / OSRD の意思決定、21社体制、生産量推移
- C&EN (American Chemical Society, 2005-06)「Penicillin」(https://cen.acs.org/articles/83/i25/Penicillin.html) — Merck・Squibb・Pfizer・Lilly の役割分担、Pfizer が最大生産者になった理由
- National Geographic「How World War II put penicillin into every pharmacy」(https://www.nationalgeographic.com/magazine/article/how-world-war-ii-put-penicillin-into-every-pharmacy) — 戦後の民間普及と価格下落($20 → $0.55)
- USDA-ARS「Penicillin: Opening the Era of Antibiotics」(https://www.ars.usda.gov/midwest-area/peoria-il/national-center-for-agricultural-utilization-research/docs/penicillin-opening-the-era-of-antibiotics/) — Andrew J. Moyer と NRRL の一次資料的解説
- Wikipedia「Andrew J. Moyer」「Norman Heatley」「Howard Florey」「War Production Board」— 人物・組織の基本情報の確認
- Kingston, W. (2000)「Antibiotics, invention and innovation」Research Policy — 戦後の特許戦略の変化、抗生物質開発の減速
- WHO (2019)「No Time to Wait: Securing the future from drug-resistant infections」— 現在の薬剤耐性菌による死亡推計と 2050 年予測