53.85km。24年。延べ1,400万人。7,455億円。34人の命。
1988年、本州と北海道が海底トンネルで繋がった。全長53.85km、海底部23.3km。完成時点で世界最長。掘削のピーク時、坑内では常時3,000人が働いていた。切羽付近の気温は35℃、湿度90%超。24時間3交代で掘り続けた。
開通直後、このトンネルは「昭和三大馬鹿」と呼ばれた。
38年後の今、毎日約70本の列車が走っている。止まれば北海道の物流が止まる。
Mission:1,430人が沈めた議論
1954年9月26日。台風15号(洞爺丸台風)が津軽海峡を襲った。
青函連絡船「洞爺丸」の船長・近藤平市は、津軽海峡航路30年の経験を持つベテランだった。17時頃、青空が見えた。台風が去ったと判断し、18時39分に出港を決断する。だがそれは台風の目ではなく、閉塞前線が作った「偽りの晴れ間」だった。台風はまだ北海道の西にいた。22時43分、洞爺丸は函館港外の七重浜沖で転覆する。近藤船長の遺体は10月3日に収容された。救命胴衣をつけず、左手に双眼鏡を握っていた。
洞爺丸の構造には脆弱性があった。車両甲板の開口部から波が流入し、重心が上がった。同じ晩に青函連絡船4隻も沈没。5隻合わせて1,430人が死亡する。日本の海難事故史上最悪の惨事だった。
津軽海峡に海底トンネルを、という構想自体は戦前からあった。1946年には地質調査が始まっている。だが1,430人という数字が、構想を国家計画に変えた。
1964年5月、北海道側の吉岡で調査坑の掘削が始まる。全長53.85km、うち海底部23.3km。水深は最大140m。この規模の海底トンネルを掘り抜いた国は、この時点で存在しない。
Design:掘るまでわからない、という前提
設計上の最大の難題は、地質がわからないことだった。
津軽海峡の海底は火山性の複雑な地質で構成されている。断層が無数に走り、どこに水脈があるか、どこの岩が軟弱か、地上からの調査では把握しきれない。掘ってみるまでわからない。
青函トンネルが採用した設計思想は、「わからないまま進まない」だった。
構成は3本のトンネル。本坑に加えて、作業坑と先進導坑を並行して掘る。先進導坑は本坑より常に先行し、前方の地質を確認する。水脈に当たれば先進導坑が先にぶつかり、本坑は迂回できる。作業坑は資材搬入と排水を担う。本坑だけを掘るのではなく、本坑を安全に掘るためのトンネルを先に掘る。
さらに先進ボーリングを併用した。先進導坑の切羽から、常に1km先の地質をボーリングで確認し続ける。1981年にはボーリング長2,150mの世界記録を樹立する。
当初、TBM(トンネルボーリングマシン)の使用が計画されていた。しかし実際に掘り始めると、軟弱な地層と出水がTBMの想定を超えていた。早期に断念し、在来工法(発破と人力掘削の組み合わせ)に切り替えている。硬い岩盤なら機械が速い。何が出るかわからない地質では、人間が判断しながら掘るほうが安全だった。
もう1つの設計変更がある。着工時、青函トンネルは在来線規格で設計されていた。途中で整備新幹線計画に合わせ、新幹線規格に変更された。トンネル断面を拡大する設計変更を、掘削中に行った。この判断が28年後に効いてくる。
Execution:4回の出水、2,028mの水没
施工体制はJV(共同企業体)で組まれた。竜飛工区(本州側)は鹿島建設・熊谷組・鉄建建設。吉岡工区(北海道側)は大成建設・間組・前田建設工業。日本を代表するゼネコンが両側から掘り進めた。
計画と現実
当初の工期計画は具体的な資料が限られるが、総工費は当初計画5,384億円に対し、実績7,455億円。38%の超過。海峡線全体では6,890億円の計画が約9,000億円に膨らんだ。31%増。
超過の支配的な要因は出水対策だった。大小合わせて4回の異常出水が工事を止め、そのたびに復旧と止水に数ヶ月を費やした。出水のない期間も、先進ボーリングで前方の地質を確認しながら掘り進めるため、通常のトンネル工事より掘進速度が遅い。安全を買うコストが、計画超過の大半を占めた。
第1次異常出水(1969年2月)
1969年2月13日。調査坑が1,223m地点で断層にぶつかった。毎分11トンの海水が坑内に流れ込む。
先進導坑が先行していたことで断層の位置が判明し、本坑のルートを東側にずらす決定がなされた。掘ってみて、避ける。先進導坑がなければ、本坑が直接断層に突き当たっていた。設計思想が機能した最初の事例だった。
第2次異常出水(1974年12月)
1974年12月。毎分10トンの出水で坑内130mが水没した。排水用のポンプを搬入するため、作業員がイカダを組んで水没区間を渡った。
第3次異常出水(1976年5月)
1976年5月6日。毎分85トン。
25mプール1杯分の水が約1分半で坑内に注ぎ込む量。作業坑2,028mが水没した。防水堤を築いたが、水圧で3回突破された。
止水に使われたのが薬液注入工法。トンネル径の3〜5倍の範囲に放射状の細孔を穿ち、薬品入りセメントを注入する。周囲の岩盤ごと固めて水を止める。海底で、水圧と闘いながら、岩盤を人工的に作り直す作業。復旧に70日を要した。
先進導坑貫通(1983年1月27日)
1983年1月27日、先進導坑が貫通した。本州と北海道が初めて地下で繋がった瞬間。発破のスイッチは中曽根康弘首相が首相官邸から遠隔で押した。
23km以上の海底区間を中間立坑なしで両側から掘り進め、貫通時の誤差はX方向37.4cm、Y方向52.5cm、高さ19.6cm。数百回に及ぶ測量の積み重ねが、この精度を実現した。
本坑貫通(1985年3月10日)
1985年3月10日、本坑が貫通。着工から21年。調査坑着工の1964年から数えて、北海道側と本州側の掘削チームが海底で出会うまでに7,600日以上が経過していた。
残る3年は設備工事と仕上げに費やされた。レール敷設、電気設備、換気設備、排水設備。トンネルは掘って終わりではない。
1988年3月13日、青函トンネル開通。24年間の工事で34人が犠牲になった。
大成建設の吉岡工区では265万時間のトンネル工事無災害記録を達成している。24年間で34人という数字は、日本のトンネル工事の安全水準としては当時の相場だが、1人1人に家族がいた。
People:24年をリレーした人々
青函トンネルには、パナマ運河のレセップスやブルックリン橋のローブリング親子のような単独のヒーローがいない。24年間を複数の世代がリレーした。
鉄建公団の総裁を1979年から務めた仁杉巌は、東京帝大土木工学科卒の技術官僚だった。先進導坑貫通の最終局面を監督し、1983年12月に国鉄総裁に転じた。自らを「土方」と称した人間が、100歳で亡くなるまでトンネル建設を誇りにしていたという。
土木系統の総監督・中畑三義は、複数の工区を横断して技術的判断を統括した。現場の人間を見る目でも知られ、漁師から転身した作業員に「海の底に行けば、あんたの時代が来る。俺は人を見る目がある」と声をかけたエピソードが残っている。
鉄建公団の角谷敏雄は、1964年の調査坑着工から現場に入った技術者の1人。掘削現場で蓄積された地質データと対策のノウハウは、次の世代の技術者に引き継がれていった。
施工を担ったJVの現場では、ピーク時に3,000人が同時に坑内で作業していた。切羽付近の気温35℃、湿度90%超。竜飛工区の鹿島建設チーム、吉岡工区の大成建設チーム。両側から掘り進め、1983年に先進導坑が、1985年に本坑が貫通する。
1人の天才が率いたプロジェクトではない。24年という時間が、個人の英雄譚を許さなかった。組織としての技術蓄積と継承で完成したプロジェクト。
Legacy:「馬鹿」と呼ばれたインフラ
1988年3月13日、青函トンネル開通。海底部23.3kmは当時世界最長だった。
「昭和三大馬鹿」
開通直後から批判が噴出した。「昭和三大馬鹿査定」。大蔵省(現・財務省)の主計官が語った自戒の言葉とされる。戦艦大和、伊勢湾干拓、そして3つ目。「3つ目は絶対に言ってはいけない」と言われたが、暗に青函トンネルを指していた。
航空機が移動の主役になった時代に、24年と9,000億円をかけて鉄道トンネルを掘る意味があったのか。開通後の青函連絡船は廃止され、在来線特急が走ったが、航空機との時間差は歴然だった。赤字路線。
英仏海峡トンネルとの比較
1994年、英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)が開通し、青函トンネルの「世界最長」は6年で終わった。
2つのトンネルは好対照をなす。
全長は青函53.85kmに対し英仏50.5km。だが海底部は青函23.3kmに対し英仏37.9km。海底下の深さは青函が最大100mに対し英仏は45m。青函のほうが深い位置で、より複雑な地質と闘っている。
工費は青函が約7,455億円(取り付け線含め約9,000億円)、英仏は約1.6兆円(150億ドル)。英仏のほうが高い。犠牲者は青函34人、英仏10人。工期は青函24年、英仏6年。
英仏海峡トンネルはTBM11台を投入して6年で掘り抜いた。青函トンネルは出水との闘いでTBMを早期に断念し、在来工法で24年かけた。地質条件の違いが、工法と工期を決定的に分けた。
新幹線による再評価
2016年3月26日、北海道新幹線が青函トンネルを走り始めた。東京と新函館北斗を約4時間で結ぶ。着工時の設計変更で新幹線規格に対応していたことが、28年後に実を結んだ。
2024年末、トンネル内の最高速度が160km/hから260km/hに引き上げられた。青函トンネルは在来線規格のまま開通していたら、新幹線は走れなかった。掘削中に断面を拡大する決断をした誰かがいる。
現在、1日約70本の列車が通過する。年間の貨物輸送量は約380万トン、旅客は約160万人。北海道の農産物、乳製品、工業製品。青函トンネルが止まれば、北海道の物流は止まる。
もう1つの数字がある。トンネルには毎分18トンの地下水が湧き出ており、常時排水している。ポンプが止まれば1週間で水没する。38年前に完成した構造物は、今この瞬間も維持管理の手を必要としている。
学び:「わからない」を前提にした設計
青函トンネルの先進導坑と先進ボーリングは、「わからない」への向き合い方を示している。
海底の地質は掘るまでわからない。わからないまま本坑を掘れば、断層に正面からぶつかる。だから1km先を常に調査し続けた。わからないという事実を受け入れた上で、わからないまま進まない仕組みを作った。
これは本坑の3倍の掘削量を意味する。3本のトンネルを掘る。コストは3倍。だが本坑が断層に突き当たって水没するリスクと比べれば、先に知っておくコストのほうが安い。
開通後に「馬鹿」と呼ばれた事実は、24年プロジェクトが抱える本質的なリスクを映している。着工時に正しかった前提が、完成時には覆っている。航空機の時代に鉄道トンネルは不要だった。だが新幹線の時代には不可欠になった。
インフラの価値を測る時間軸は、作った世代が見ている景色より長い。