Execution Atlas
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TGV — なぜ後発のフランスは、新幹線より安く高速鉄道を作れたのか

1981年9月27日、パリとリヨンを結ぶ列車が走り出した。最高260km/h。およそ410kmを2時間40分で結ぶ。

世界初の高速鉄道ではない。日本の東海道新幹線が210km/hで開業したのは1964年。フランスのTGVはその17年後に登場した、明確な後発だった。

後発は、ふつう先駆者より高くつく。前例がないところに道を切り開いた者の苦労を、後から来た者は教科書として読める。それでも追いつくには相応の投資がいる。ところがTGVの最初の路線は、逆のことをやってのけた。建設費はキロあたり換算で史上最も安い高速鉄道になり、補助金を一切使わず、開業から12年で投資を回収しきった。

新幹線は予算が2倍に膨らんだ。TGVは膨らまなかった。同じ高速鉄道で、なぜこの差が生まれたのか。

Mission

1960年代のフランスで、鉄道は斜陽の代名詞だった。

世界の潮流は航空と高速道路にあった。アメリカはインターステートを延ばし、ヨーロッパも自動車と飛行機に投資を振り向けていた。線路の上を走る乗り物は、19世紀の遺物に見えた。

その空気のなかで高速鉄道の研究を続けたのが、フランス国鉄SNCFと車両メーカーのアルストム(当時のアルストム・アトランティック)だった。後ろ盾になったのは大統領ジョルジュ・ポンピドゥー。1971年、政府はパリ〜リヨンを結ぶ高速新線計画「C03」、のちのTGV南東線を承認した。

狙いははっきりしていた。航空と高速道路から客を奪い返す。そのために必要なのは、最高速度の数字そのものではなく、都心の駅から都心の駅までの時間だった。空港は街の外にある。搭乗手続きがいる。鉄道が都心同士を直結できれば、トータルの移動時間で飛行機に勝てる。

パリ〜リヨンが選ばれたのは偶然ではない。フランス有数の需要が太い区間で、投資を回収できる確度が最も高い路線だった。最初に手をつける範囲を、回収の堅いコアに絞る判断。

Design

最初の大きな分岐点は、走らせる前にやってきた。

1972年、SNCFはガスタービンで動く試作車「TGV 001」を走らせていた。同年12月、この車両はガスタービン電気式として318km/hの世界記録を出す。技術的には申し分なかった。高速鉄道はガスタービンで実現する、誰もがそう考えていた。

1973年、石油危機が起きる。原油価格が跳ね上がり、油を燃やして走る列車の前提が崩れた。SNCFは推進方式をガスタービンから電気へ切り替える決断を下す。

これは過去の投資を捨てる判断でもあった。TGV 001の試験には6年がかけられ、5,000回を超える走行と約50万kmを積んでいた。普通なら惜しくて手放せない。SNCFは方式そのものは捨てたが、車体構造や動力配分の設計概念は次の電気式試作車「ゼビュロン」に移植した。捨てるものと活かすものを分けた。

もう一つの設計判断が、この記事の核心になる。

専用の高速新線を、まったく新しい思想で引いた。在来線を高速化するのではなく、高速走行だけを前提にした線路を一から設計する。ここでSNCFは、誰も疑っていなかった常識を一つ崩した。

鉄道の線路は、できるだけ平らに引く。勾配は貨物列車の重い編成を引きずり上げる足かせになるから、緩くするのが鉄則だった。在来のパリ〜リヨン線は最大勾配0.8%に抑えられていた。

SNCFはこう考えた。高速で走る軽い旅客専用列車なら、もっと急な坂を登れる。

南東線の最大勾配は3.5%に設定された。在来線の4倍以上。この一つの数字が、下流のすべてを変えることになる。

Execution

勾配を緩める必要がなくなると、線路は丘を避けて迂回しなくてよくなる。

地形に逆らわず、起伏をそのまま登り降りする直線的なルートが引けた。結果として、南東線にはトンネルが一本もない。山を貫く必要がなかった。

建設はさらに安くなる方向へ進んだ。高架橋を最小限にし、線路は地面の上に直接敷いた。土を削る区間で出た土砂を、すぐ近くの盛り土にそのまま使う。切土と盛土を現場ごとに釣り合わせ、土の運搬を地産地消で済ませた。

1976年に着工。SNCFはアルストム陣営に、量産車87編成の初回発注を出していた。約410kmの新線と車両を並行して進め、5年で開業にこぎつける。

完成した南東線の建設費は、PPP2022年ドル換算でキロあたり約840万ドル。高速鉄道として、群を抜いて安い。後年に各国が建設したどの高速鉄道路線よりも安く上がった。

ここで新幹線を並べてみる。東海道新幹線は総工費が当初予算1,972億円の約2倍、3,800億円に膨らんだ。国鉄総裁の十河信二は予算を実額の半分で国会に通し、その責任を取って開業前に辞任している。世界初を切り開く事業は、見えない地質と未知の技術に金を吸われた。

TGVが安く済んだのは、フランス人が日本人より倹約家だったからではない。先駆者が払った授業料を、後発が設計図として受け取れたからでもない。最大の理由は、高速旅客列車なら急勾配を登れるという一点を見抜き、その制約を緩めたことにある。コストは現場の値切りで決まったのではなく、線路を引く前の仕様で大半が決まっていた。

People

TGVには、新幹線の島秀雄や十河信二のような、物語の中心に立つ一人の英雄がいない。

主役はSNCFという組織の、徹底したコスト規律だった。あらゆる工程で安くする方法を探し、勾配という常識を疑い、土の運び方まで設計に織り込む。派手な決断ではなく、地味な最適化の積み重ねがキロあたり840万ドルを生んだ。

数少ない名の残る一人が、工業デザイナーのロジェ・タロンである。1929年生まれ、エンジニアとして学んだのちキャタピラーやデュポンを経てデザインの道に進んだ。タロンが手がけたのは車両の外形や走行性能ではない。座席のエルゴノミクス、車内のサイン、配色、乗客が触れる空間そのものだった。

役割は明確に分かれていた。速さと安全はエンジニアが、乗り心地はデザイナーが受け持つ。タロンはこの後もTGV大西洋線、TGVデュプレックス、そして1994年のユーロスターまで、フランスの高速鉄道の内装を一貫して設計し続けた。

1981年9月22日、最初の区間の開業式典に大統領フランソワ・ミッテランが出席した。研究を後押ししたポンピドゥーは、その7年前に世を去っている。構想を支えた者は完成を見ず、完成を祝う者は別の人間だった。大規模プロジェクトに繰り返し現れる、始める人と享受する人のずれ。

Legacy

1989年、南東線は累計1億人目の乗客を運んだ。

都心同士を2時間40分で結ぶ列車は、狙いどおり航空から客を奪った。パリ〜リヨンの空の便は縮み、人々は駅に流れた。南東線の最高速度はその後300km/hまで引き上げられ、後発の新線では320km/hに達する。TGVはフランスの背骨になる。

1993年末、南東線は完全に償却された。運用開始から12年。期待されていた財務収益率は最低でも12%という水準だったが、実績はそれを大きく上回った。補助金は一切使っていない。後年フランスが建設した高速新線のいくつかが補助を必要としたのとは対照的に、最初の路線は自力で投資を返しきった。

南東線の3.5%という勾配基準は、その後ヨーロッパの高速鉄道の標準になった。急勾配を許容して建設費を抑える設計思想は、フランスから各国へ広がっていく。

新幹線が「鉄道は航空と競合できる」ことを世界に証明し、TGVが「高速鉄道は安く作れる」ことを証明した。先駆者と後発が、それぞれ別の問いに答えた。

学び

TGV南東線がキロあたり840万ドルで済んだ最大の理由は、現場の努力ではない。線路を一本も引かないうちに、最大勾配を0.8%から3.5%へ緩めた一つの判断だった。

この決断が、トンネルをゼロにし、ルートを直線化し、地表建設と土の地産地消を可能にした。コストの大半は、土を掘る現場ではなく、制約を決める設計の段階で確定していた。

プロジェクトのコスト超過を語るとき、視線は実行段階に向きがちだ。工事が遅れた、見積もりが甘かった、調達が高くついた。だが本当にコストを支配しているのは、その手前にある。何を「動かせない前提」として受け取るかだ。

SNCFが疑ったのは「線路は平らに引くもの」という、誰も問い直さなかった鉄則だった。貨物の重い編成を基準にした制約を、高速旅客専用という新しい条件で見直したとき、坂は登れるものに変わった。制約が一つ緩むと、その下流にぶら下がっていたトンネルも迂回も高架も、まとめて消えた。

問いはこうなる。あなたのプロジェクトで「絶対に動かせない」と思い込んでいる制約のうち、本当は前提が変わって緩められるものはどれか。その一つを緩めたとき、下流のコストはどれだけ崩れ落ちるか。

新幹線は、正しくない手段で始まっても偉大な成果を残せることを示した。TGVが示したのは、その反対側にある教訓だ。最も効く節約は、削ることではなく、疑うことから生まれる。

出典・参考資料

Project Timeline