銅およそ499トン。錫8.5トン。水銀2.5トン。金440キログラム。
延べ動員260万人。寄進した人42万人。総人口500〜600万人と推定される当時の日本において、何らかの形で大仏に関わった人は、ざっくり国民の半数になる。
これが、奈良時代の国家プロジェクト「東大寺大仏殿」の見積もり書だ。詔は743年、開眼供養は752年。9年でやり切った。
そして、この9年で建てた建物は、二度焼かれた。1180年に平重衡の軍勢、1567年に松永久秀の戦火。現存する大仏殿は、1709年に完成した3代目だ。創建時の幅約86mに対して、3代目は57.5m。3分の2まで縮んでいる。間口で言えば11間が7間になった。
3代目が建ってから300年余り。今のところ、燃えていない。
Mission:人口の3割が消えた国で
聖武天皇が大仏造立の詔を発する8年前、日本は天然痘でほぼ崩壊していた。
735年に九州から流行が始まり、737年までの3年間で人口の25〜30%が死んだとされる。同じ737年に、政権中枢を握っていた藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が4人とも揃って死亡した。光明皇后の兄たちだ。中央政府は機能停止した。
その後、地震が来た。干ばつが来た。740年には藤原広嗣が九州で反乱を起こした。聖武天皇は平城京を離れ、恭仁京、難波京、紫香楽宮と都を転々とした。誰の目にも、この国は神々から見放されていた。
743年10月15日、滋賀の紫香楽宮で大仏造立の詔が発せられた。
詔の文言は強い。
夫れ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者は朕なり。此の富と勢とを以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難き。
天下の富も勢力もすべて自分が持っている。だから像を作ること自体は簡単だ。むずかしいのは、人々の心を1つにすることのほうだ。
天皇がこう書く時点で、これは仏像建立プロジェクトではない。災厄続きで沈んだ国に、もう一度共通の方向を向かせるための装置を作ろうとしている。要件定義としては「国の再起動」だ。
詔にはもう一行ある。
もし更に人の一枝の草・一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者あらば、恣に之を聴せ。
一本の草、一握りの土を持って手伝いたい者があれば、自由に受け入れろ。これは現代語に翻訳すると、参加のハードルを極端に下げるという宣言になる。富と勢で押し切れる工事ではないと、発注者自身が認めている。
Design:紫香楽で着工し、平城京でやり直した
詔から1年。744年11月、紫香楽宮の地で大仏の体骨柱を立てる。仮の組み立てが始まる。
ところが745年5月、聖武天皇は都を平城京に戻す。紫香楽宮そのものが捨てられた。連動して、大仏の起工地も平城京の金鍾山寺(後の東大寺)に移される。前年に立てた体骨柱は使われない。1年分の工事は捨てた。
サンクコストを切ったわけではない。前提が変わったから、計画ごと書き直しただけだ。「紫香楽で大仏を作る」が当初設計だったとすれば、「日本のどこかで大仏を作る」が本来の目的だった。前提(都の場所)が崩れた瞬間に、目的だけ残して場所を変えた。
設計上の制約は3つあった。
1つめは、規模。座高約14.7m、銅499トンの仏像を一気に鋳ることは、当時の技術では不可能だった。鋳型に1,200度の青銅を一度に注ぎ込めない。
対応として、像を水平に8段に分けた。下から順に鋳込んでいく積層鋳造法。1段鋳造して冷えるまで待ち、その上に次の鋳型を組み、また鋳る。段の継ぎ目は「鋳がらくり」と呼ばれる機械的な噛み合わせで接続する。1段ごとが事実上の独立工程になっている。
2つめは、材料。当時の日本の銅生産量で499トンを揃えるのは、ほぼ不可能だった。長門・備中・周防など各地の鉱山が動員され、それでも足りず、銅貨や銅器も鋳潰された。金440キログラムは、もっと深刻だった。金は基本的に輸入だった。
3つめは、人。詔をどれだけ強く出しても、朝廷の人事だけでこの規模は動かせない。聖武天皇は、自分の前任者たちが弾圧していた1人の僧侶を、最高位の役職に引き上げる決断をする。
行基だ。
Design:異端を大僧正にした
行基はこの時点で75歳。河内出身の僧で、若い頃は奈良の寺で学んでいたが、ある時期から街に出て民間布教を始めた。橋を架け、池を掘り、道を直しながら、信徒のネットワークを各地に作っていく。
朝廷から見れば、これは制度の外で動く危険な存在だった。717年には行基の活動を禁止する勅令が出ている。「妖言」を流す僧として弾圧された。
しかし、行基はそのまま民衆動員のリーダーになっていた。彼を中心に「知識」と呼ばれる信徒ネットワークが全国に広がっていた。寄付を集める仕組み、人を呼ぶ仕組み、物を運ぶ仕組み。朝廷が官僚機構で作ろうとして作れなかったものを、行基は信仰で作ってしまっていた。
聖武天皇は行基に勧進職を依頼し、745年に日本初の大僧正の位を授けた。それまで日本に存在しなかった称号だ。称号を新設してまで、この1人を制度内に取り込んだ。
外で動かしていた人間を、内側に正式な席を与えて迎え入れる。朝廷の側から見ればそれは譲歩だ。動員力という稀少資源を、行基が独占していたから、対価を払うほかなかった。
行基の信徒ネットワークが動き出すと、勧進は一気に進んだ。残された記録では、寄進者の内訳が出てくる。
- 材木の寄進者 51,590人
- 材木の労働力 1,665,071人
- 金銅の寄進者 372,075人
- 金銅の労働力 514,900人
延べ約260万人が労働力として、約42万人が寄進者として参加した。1日あたり平均500人が現場で働いた計算になる。
行基は完成を見ずに亡くなる。749年2月、82歳。鋳造が完了する3か月前のことだった。
Execution:陸奥で金が出た
747年9月、鋳造開始。
2年弱で8段の積層鋳造を進める。1段が冷え固まったら、その上に粘土で型を組み、銅を流し込み、また冷ます。失敗すれば全段が無駄になる。鋳型を組む人、粘土を運ぶ人、燃料の薪を割る人、空気を送るふいごを踏む人。500人が日々動いている。
途中、本当に止まりそうになった。
鍍金、つまり大仏の表面を金で覆う工程に必要な金が、足りなかった。当時の日本にはまとまった金鉱山がなかった。輸入で確保しなければならないが、その当てもなかった。
749年正月。陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町)で金が出た。日本で初めての金鉱発見だった。
産金の知らせが届くと、聖武天皇は感激して元号を変えた。「天平」を「天平感宝」に。さらに4か月後、譲位と同時に「天平勝宝」へ。短期間に2回の改元が、この発見の意味の大きさを物語っている。鋳造途中の大仏には、まだ金を貼る工程が残っていた。そのタイミングで、必要な金が国内から出てきた。
ちなみに行基はこの直後に死んでいる。陸奥の金は見たが、完成は見ていない。
749年閏5月、鋳造完了。3年弱で8段。
その後、像の表面を磨き、金と水銀を混ぜたアマルガムを塗り、加熱して水銀を蒸発させる。金だけが大仏の表面に残る。火を使った金メッキだ。水銀蒸気は当然、現場の作業員を蝕んだはずだが、当時の記録に職業病の概念はない。
752年4月9日、大仏開眼供養。
詔から数えてちょうど9年だった。
導師を務めたのは東大寺初代別当の良弁。開眼師、つまり大仏の瞳を筆で描き入れる役を務めたのは、菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ)というインド出身の僧だった。736年に来日し、この時48歳。インドから来た僧が、日本の天皇が発願した仏像の眼を入れる。
参列者の規模が異常だ。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇に加え、文武百官と僧侶、合わせて約1万人。楽舞は日本のものだけでなく、唐、高麗(朝鮮半島)、林邑(現在のベトナム南部)から来た一座が順に演じた。
『続日本紀』はこの日をこう記す。
仏法東帰り、斎会の儀、嘗て此の如く盛なるはあらず。
仏教が日本に伝来して以来、これほど盛大な法会はなかった。書き手も気圧されている。
国際儀礼として演出されている。国内向けの「危機からの再起動」と、国外向けの「東アジア仏教世界の中心は奈良である」というブランディングが、同じ日に同居している。
開眼の筆には長い綱が付けられていた。綱は参列者全員の手まで延びていた。記録では「結縁の綱」と呼ばれる。1人の僧が筆を動かすが、その動きは1万人の手に同期している。
「事や成り易く、心や至り難き」。9年前の詔の最後の一行が、ここで回収されている。
People:再建を引き受けた人たち
平重衡が南都焼討を行ったのは1180年12月28日の夜だった。
平清盛と源氏勢力(特に興福寺を後ろ盾とした奈良勢力)の対立の中で、清盛の命を受けた平重衡が奈良へ攻め込んだ。風が強い夜だった。火が興福寺から東大寺へ飛んだ。あるいは延焼を放置した。記録は両説ある。いずれにせよ、大仏殿は焼け落ちた。
像も無事ではすまなかった。火に晒された銅は溶け、頭部が落ち、両腕が崩れた。428年で大仏殿は灰になった。
翌1181年、後白河法皇から再建の大勧進職に任じられたのが、重源(ちょうげん)だった。61歳。
重源は当時としてはとっくに引退している年齢だ。しかも経歴がやや異色で、3度宋(南宋)に渡った経験があった。当時の日本仏教界では渡海経験者は希少で、特に建築・土木技術については先端の知識を持っていた。
彼が選んだ再建方針は、創建時の和様ではなかった。
「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる新しい構造様式を採用する。柱を貫通する貫(ぬき)と呼ばれる横材を多用し、大空間を少ない柱で支える。宋から学んだ工法だった。和様の伝統に固執しなかった。火災に対する耐性も、施工の速さも、こちらが上回ると判断した。
源頼朝が支援した。1185年には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養。1195年には大仏殿の落慶供養が行われ、後鳥羽天皇と源頼朝が臨席した。落慶のとき、重源は74歳になっていた。
重源は1206年に86歳で死ぬまで、東大寺の現場にいた。3度の渡宋経験と、61歳から始めた25年。彼が来なければ、平安末の戦乱の中で大仏殿はそのまま消えていた可能性が高い。
それから約370年が過ぎる。
1567年10月10日、三好・松永の乱。松永久秀の軍勢が、東大寺に陣を構えていた三好三人衆を夜襲した。再び大仏殿炎上。再び大仏溶融。今度は再建されなかった。
戦国期の朝廷にも幕府にも、その余力はなかった。大仏は雨ざらしになった。胴体は溶け、頭部は失われた。応急に銅板や木の覆いを被せて、120年が過ぎた。
1648年に生まれた1人の僧が、子供の頃に雨に打たれる大仏を見ている。三論宗の公慶(こうけい)だ。
公慶は1684年、36歳のときに動き出す。江戸幕府に許可を願い出て、全国規模の勧進を開始した。彼が掲げたスローガンは「一紙半銭」だった。
一枚の紙、半分の銭。それだけの寄進でいい。それを大いなる功徳とする。
巨額寄進者を1人探すのではなく、極小寄進を数で集める設計だった。寄付者リストの管理、勧進帳の発行、地方の代理人ネットワーク。資金集めの組織を全国に作った。7年で1万1千両、現代の貨幣価値でおよそ10億円が集まった。
1690年に大仏修復着工。1692年に開眼供養。
翌1693年、公慶は江戸に上り、5代将軍徳川綱吉、その母桂昌院に拝謁する機会を得た。マイクロ寄進で動き始めた事業に、ここで幕府の支援が乗った。順序が大事だ。先に幕府を口説いていたら、おそらく動かなかった。先に動いていたから、幕府が乗れた。
大仏殿の再建には、また別の問題が立ちはだかる。木材だ。
創建時、大仏殿の柱は1本の巨木で持たせていた。間口11間、つまり横方向に11本の大柱が並ぶ造りだった。江戸初期に同じ規模で建てようとすると、巨木が手に入らない。江戸城、徳川各家の城郭、京都の大寺院再建ラッシュで、日本列島の太い木はすでに刈り尽くされていた。
公慶は、11間を諦めた。
7間に縮める。横方向に7本の柱で支える設計に変えた。それでも一本柱は確保できず、短い木材を3〜4本継ぎ合わせて1本の柱とする工法を採用した。大仏殿そのものは、ジオメトリで言えば原型の3分の2スケールに落ち込んだ。
それでも、虹梁(こうりょう)と呼ばれる大梁2本だけは、1本ものの巨木がどうしても必要だった。日本中を探した。1704年、ようやく日向国(現在の宮崎県)の白鳥山で適材が見つかる。山から伐り出し、奈良まで運ぶのに10万人の人足が動員されたと記録されている。
公慶は完成を見ない。1705年、勧進のために下向していた江戸で痢病に倒れて客死した。数え58歳。
落慶は4年後の1709年4月8日。公慶の弟子と幕府の手で進められた完成式典に、公慶の名前は導師として現れない。
聖武天皇は出家して退き、行基は鋳造完了の前に死んだ。重源は74歳で落慶式に立ち会えたが、すぐに死んだ。公慶は最後の落慶を見られなかった。
開眼供養の筆を握る人物は、いつも建てた人ではない。
Legacy:3代目だけが300年燃えていない
大仏殿は3代ある。3代の幅を並べると、こうなる。
| 代 | 幅 | 奥行 | 高さ | 完成 |
|---|---|---|---|---|
| 創建(天平) | 約86m | 約50m | 約37m | 752/758 |
| 鎌倉再建 | ほぼ同サイズ | 同 | 同 | 1195 |
| 江戸再建(現存) | 57.5m | 50.5m | 49.1m | 1709 |
奥行と高さはほとんど変わっていない。屋根の構造を保つ最低限の寸法を、3代とも維持している。
幅だけが、創建時の3分の2に縮んだ。
これは美意識の選択ではない。素材の限界だった。江戸前期の日本列島には、もう「11間幅の屋根を支えられる柱」が森から伐り出せなかった。同じ規模で建てたければ建てられた、わけではない。建てられないから縮めた。
ところが、興味深いことが起きている。
3代目だけが燃えていない。
創建大仏殿は約428年で焼かれた。鎌倉再建大仏殿は約372年で焼かれた。江戸再建大仏殿は今、約316年経っているが現存している。応急修復は何度かあったが、建て直しはされていない。
理由はいくつか挙げられる。江戸時代以降の建築技術が向上したこと。防火意識が高まったこと。明治以降は大規模戦乱が境内まで届かなかったこと。それでも、サイズが小さくなったことが「燃えにくさ」に直接効いた可能性は無視できない。
幅が3分の2になれば、屋根の延焼経路は短くなる。柱は継ぎ材で構成されているから、1本が損傷しても他の継ぎ材で支えられる。創建時の超巨大な単材で組まれた大仏殿のほうが、火が回ったときの拡大速度は速かったはずだ。
100%の再現を諦めた建物が、もっとも長生きした。
大仏本体についても、似た構造がある。
現在の大仏のうち、奈良時代のオリジナルが残っている部分は限定されている。台座の蓮弁の一部、腹部、両膝あたりに天平時代の銅が残っている。頭部は江戸時代、両腕は桃山〜江戸時代の鋳物だ。
「奈良の大仏」と呼ばれているものは、奈良時代の部分と、鎌倉時代の部分と、桃山〜江戸時代の部分が継ぎ合わさった、1つの集合体になっている。連続している部品はほとんどない。それでも、これは奈良の大仏である、と全員が認識している。
舟を航海中に1枚ずつ板を取り換えていったら、最後に残った舟は最初の舟と同じか。テセウスの舟という古典的な問いがある。東大寺の大仏は、その問いを実装している。何代もの再建職人が、それぞれの時代の銅と技で、自分が担当した部位を打ち込んだ。継ぎ目はある。様式の違いも見れば分かる。それでも、像としては同じ像として、参拝者の前に座っている。
これを「修復」と呼ぶのが正確かは、よく分からない。
学び
9年で建てた建物は、428年で焼けた。370年でまた焼けた。120年雨ざらしだった。
それでも、大仏殿はいまも東大寺にある。
理由は、最初に建てた人ではなく、建て直した人にあった。
聖武天皇は最初の聖典を書いた。行基は最初の動員ネットワークを組んだ。彼らがいなければ752年の開眼供養はない。ただし、大仏殿が現在まで残っている理由として、創建期の貢献が決定的だったかというと、そうではない。創建大仏殿は2回燃え、創建大仏のうち現存しているのは像のごく一部だ。物理的には、創建期に作られたものはほとんど残っていない。
残ったのは、組み方の知識と、再建できる組織の系譜だった。
重源は宋の建築技術を持ち帰り、和様ではなく大仏様を選んだ。失敗の再現を避けた。公慶は11間幅を諦め、7間で再建した。完全な再現を放棄して、達成可能な規模に切り替えた。
それぞれの再建は、その時代に手に入る素材と、その時代の組織と、その時代の技術で組み直している。同じ大仏殿を3回建てたのではない。3代の違う組織が、3つの違う方法で、同じ場所に屋根を架け直した。
このプロジェクトの本体は、たぶん建物ではない。建て直し続ける仕組みのほうだ。
仕組みの中身を取り出すと、要素は3つある。
1つめは、勧進という資金調達の継続性。重源も公慶も、トップダウンの予算ではなく、寄進ネットワークを再構築することで資金を集めた。公慶の「一紙半銭」は、特定の権力者に依存しない設計だった。徳川綱吉が支援したのは、勧進の土台が先に動き出したあとだった。スポンサーは依存先ではなく、追随者として組み込まれていた。
2つめは、技術選定の柔軟性。創建時の和様にも、鎌倉再建の大仏様にも、江戸再建の継ぎ材工法にも、それぞれの時代に最適な工法が選ばれている。原型再現に固執していたら、江戸再建は永久に始まらなかった。再現を諦める判断が、再現の可能性を残した。
3つめは、人事の異例さ。聖武天皇は弾圧していた行基を大僧正に任じた。源頼朝は宋帰りの重源に勧進職を任せた。徳川綱吉は無名の三論宗僧公慶に再建の許可を出した。3つの再建期にいずれも、本流ではない人物がプロジェクトリーダーになっている。本流の組織だけでは、再建が始まらなかったとも言える。
建物を残したのは、設計ではなく、これらの仕組みの方だった。
僕たちが現代で作るものも、たぶん同じ運命にある。サービスは終わる。コードは腐る。組織は解体される。100年残ることを目指して作っても、100年後にそのまま動いている可能性は限りなく低い。
でも、再建可能な状態で残せる。
ドキュメントが揃っていれば再構築できる。技術選定が単純なら別の人間が読み解ける。スポンサーが分散していれば1人の撤退で止まらない。組織の系譜が複数あれば、本流が消えても別の系譜で再起動できる。
大仏殿が証明していることがあるとすれば、それは「建物が壊れても、組織が壊れても、仕組みが残っていれば再生できる」という、ややしぶとい話だ。
3代目の屋根の下に座っている大仏は、頭部と両腕と胴体で時代が違う。それでも、参拝者は「奈良の大仏に会いに来た」と言う。
たぶん、それでいい。

