Execution Atlas
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東京ドーム — 世界が手放した空気膜方式の、最後で最良の一棟

総工費350億円。工期34ヶ月。延べ50万人。収容5万5000人。空気の圧力差0.3%でドームを膨らませ、送風機は今も止めることができない。

1988年3月17日、東京ドームが開場した。日本初の屋根付き球場。愛称はビッグエッグ。

モデルにしたミネアポリスのメトロドームは、22年後に大雪で屋根が崩落した。空気膜方式を採った大型スタジアムは世界で次々と姿を消し、現役は東京ドームだけが残った。

このプロジェクトは、構想されてから着工するまでに30年かかっている。

Mission:1958年の新宿案

1958年6月10日、日本テレビの清水与七郎社長が記者会見を開いた。発表した計画は、新宿に収容8万人のドーム球場を建設する、というもの。建設費50億円、1960年完成予定。「世界初のドーム球場」を謳った。

背景にいたのは読売グループを率いる正力松太郎だった。都心に球場が足りない。巨人の本拠地は後楽園球場で、設備は戦前の水準にとどまっていた。1950年代後半の東京は、オリンピック招致と高度成長を見据えて都市インフラの刷新が始まっていた。正力はその波に、屋根付き球場を乗せようとした。

設計には大成建設・清水建設・鹿島建設の3社が入った。平山嵩と武藤清、東京大学の建築工学の2人の権威を中心に、顧問会議が組まれた。正力は会議に頻繁に顔を出し、ある日、説明の要領が悪い大成建設の担当者を叱りつけたと記録されている。

計画は進まなかった。

屋根を支える構造の目処が立たない。1950年代後半のドーム構造は、ローマのパンテオンから続く組積造か、鉄骨の重い骨組みに頼るしかなかった。8万人を覆うスパンに耐える工法が、まだ世界に存在しなかった。1960年の完成予定日は過ぎ、計画は静かに棚上げになる。1969年、正力は構想が実現しないまま84歳で死去した。

20年が経った。

Design:モデルを輸入する

1978年4月、後楽園スタヂアムの新社長に保坂誠が就任する。彼が最初に動かしたのが、屋根付き新球場の構想だった。1980年5月、プロジェクトチームが社内に立ち上がる。同年10月、竹中工務店に打診。

竹中工務店の技術者たちは、北米の既存ドーム球場をほぼ全て視察して回った。ヒューストンのアストロドーム、ニューオリンズのスーパードーム、トロントのスカイドーム構想、そしてミネアポリスの建設中だったメトロドーム。

目をつけたのが空気膜構造だった。

空気膜構造は、ドーム内の気圧を外気より少しだけ高くして、ガラス繊維の薄い膜を押し上げる方式だ。1975年に完成したミシガン州ポンティアック・シルバードームが世界初の大型採用例で、1982年にメトロドームが続いた。鉄骨の重い骨組みが要らない。工期とコストを圧縮できる。

ただし日本には前例がない。

竹中工務店は1981年8月、ニューヨークのガイガー・バーガー社と技術提携を結んだ。空気膜大型構造の第一人者デイヴィッド・ガイガーの設計事務所で、メトロドームも手がけていた。空気膜方式ごと輸入する判断。「国内初の挑戦」を半分だけ降ろし、「他人が検証した技術を自分たちの条件に合わせる」設計方針に切り替えた。

1982年8月、竹中工務店技術研究所の敷地に実験棟が建つ。空気膜ドームの縮小版。送風ファンの流量、膜の挙動、気圧維持装置の制御、全部を実物で確認する。1984年9月5日、建設計画が正式発表された。この間、技術の検証に4年。

モデルを徹底的に模倣しつつ、設計者たちは致命的な欠陥を一箇所だけ直した。

屋根に10分の1の傾斜をつけたのだ。モデルのメトロドームの屋根は水平だった。東京は雪が降る。中央部に水や雪が溜まって袋状にくぼんだら、空気膜は破綻する。10分の1というわずかな傾斜で、積雪は端に流れ落ちる仕様になった。

この判断が、後に効くことになる。

Execution:34ヶ月の工程

1985年5月16日、着工。

敷地は後楽園競輪場の跡地だった。1976年に廃止された公営競輪場。後楽園スタヂアムが既に保有していた土地で、新規に用地買収や交渉を必要としない。1958年の新宿案が土地取得の政治交渉から始めて挫折したのと対照的に、1980年代版は「自分が持っている敷地」から始まった。この違いが工期の予見性を大きく変えている。

工程は34ヶ月。延べ50万人が建設に関わった。

空気膜構造の施工は特異だった。鉄骨で外周リングを組み、その上に膜を敷く。膜はガラス繊維にテフロンを塗布したシートで、厚さは0.8ミリ。総重量406トン。切った布団を縫い合わせるように、現場で膜のパネルを張り合わせていく。全工程を通じて屋根は床に広げたまま。竣工間際、送風機を起動して空気で膜を押し上げる。「空気で膨らます」のは文字通りだった。

鉄骨の重い骨組みが要らないぶん、工期は短く済んだ。従来型のドーム工法なら、500トン級のクレーンで鉄骨を吊り上げ、何ヶ月もかけてトラスを組む必要がある。空気膜は、床で加工した膜をあとは膨らませるだけで屋根になる。これが「空気膜でないと短工期は無理」と判断された根拠だった。

出入口はすべて回転扉で設計された。普通の片開き扉を一つでも開けると、ドーム内の気圧が抜けて屋根が降下する。回転扉は常に外気と内気を分離できる構造で、人の出入りだけを通す。最終的に設置された回転扉は54ヶ所。日常の運用を気圧維持に全振りした仕様だった。

送風機は加圧用に36台。通常の試合開催時に稼働するのは10台から18台で、閉場時は2台でも維持できる。1日あたりの電気代は約20万円。年間に直すと7000万円を超える。建物を使っていなくても、送風機を止めれば屋根は降下する。この構造を引き受けることが、「空気膜で安く作る」と等価だった。

1988年3月17日、竣工。工期34ヶ月。公表された計画どおり。

People:吉村禎章の1号本塁打

1988年3月18日午後1時35分、こけら落としのオープン戦が始まった。巨人対阪神。観客5万6000人。試合は9-4で巨人が勝った。

2回裏、巨人の吉村禎章がドーム第1号本塁打を放った。賞金100万円。6回表、阪神の田尾安志がドーム初の三塁打。賞金50万円。前年に引退した江川卓は「サヨナラ登板」として投じ、相手は何度も名勝負を演じてきた掛布雅之だった。

同年3月22日と23日、ミック・ジャガーが海外アーティストとして初のドーム公演を行った。マイケル・ジャクソンがそれに続いた。野球場で始まった施設は、わずか数日のうちにコンサート会場になり、多目的ホールになっていった。

このプロジェクトを建築面で率いた竹中工務店の設計チームは、米加のドーム球場をほぼ全て視察した時のことをこう記録している。「我々は特別なオリジナリティは狙わなかった。良いところを採り、問題のあるところだけを直した」。

30年前の正力松太郎の新宿案と、1988年のビッグエッグを並べてみる。収容は8万人から5万5000人へ減った。建設費は50億円の目論見から350億円に増えた。構想した本人は死去していた。だが「東京の都心に屋根付きで雨天中止のない球場を作る」というミッションだけは、組織をまたいで引き継がれていた。

後楽園スタヂアムの社史は、保坂誠の判断についてほとんど劇的に書かない。1980年のプロジェクト発足から1988年の竣工まで、意思決定はほぼ事務的に進んでいる。1958年案の派手な記者会見の記録と比べると、むしろ地味なプロジェクトに見えるほどだ。実行フェーズに入ってから、政治的な騒ぎが起きていない。

これはおそらく、1958年の失敗から読売グループが学んだことだった。

Legacy:空気膜ドームの最後の現役

2010年12月12日、ミネアポリスでメトロドームの屋根が崩落した。

積雪で膜が中央に押され、ガラス繊維のパネルが破れて、ドームの中に大量の雪が降り注いだ。幸いにも試合は中止されていて、負傷者はなかった。修復費は1800万ドル。4年後の2014年、メトロドームは解体された。空気膜方式がついに運用コストと耐候性で敗けた瞬間だった。

同じ時期、ポンティアック・シルバードームもトロントのロジャース・センター(旧スカイドーム)への置き換えで競技場としての寿命を終えた。空気膜方式を採った大型スタジアムで、現役として残ったのは東京ドームだけになった。

屋根に10分の1の傾斜をつけた判断が、22年後に効いた。

東京ドームは2024年まで断続的に改修を重ね、2020年のパンデミック期には換気量を5割増やして気密と換気を両立する仕様を組み込んだ。送風機は今も止まらない。1日20万円の電気代は、38年間支払われ続けている。

年間来場者はコンサート・プロ野球を合わせて数百万人。ドームシティという一帯の商業施設と結合し、後楽園競輪場の跡地は、東京で最も密度の高いエンタメ区画のひとつになっている。1958年の計画が目指した「都心の屋根付き球場」というミッションは、30年遅れで、計画と違う形で達成された。

空気膜方式そのものは、以後ほぼ採用されない技術になった。鉄骨ドームや開閉式屋根が主流になり、建設される大型スタジアムは別の工法で建つ。東京ドームは、業界が離れていった方式を一つだけ現役で保ち続けている施設になっている。

学び

東京ドームのプロジェクトは、建設管理の視点では珍しく大きな乖離が記録されていない。工期は公表どおりの34ヶ月、建設費は350億円、計画発表から3年半で開場している。設計者が解雇されることもなく、予算が倍になることもなかった。

この「乖離の小ささ」が、どこから来たか。

一つは、構想を30年寝かせたことだった。1958年の新宿案は、技術・敷地・資金のどれ一つ揃っていない時点で発表された。収容8万人の屋根付き施設を建てる工法が世界に存在せず、新宿の土地もまだ握れておらず、50億円という見積もり自体が検証不能だった。これを無理に進めれば、サンクコストに引きずられて中途半端な施設が残った可能性が高い。構想は死蔵せず、しかし起動もせず、組織の中で30年温存された。1980年に起動した時には、北米で空気膜ドームの運用実績が10年分蓄積され、後楽園競輪場の跡地が空き、プロジェクト全体の予見性が劇的に上がっていた。

もう一つは、「オリジナルを狙わない」設計判断だった。竹中工務店は北米のドーム球場をほぼ全て視察し、ガイガー・バーガー社から技術ごと輸入し、設計はメトロドームを徹底的に模倣した。日本初の空気膜ドームとしての「新規性リスク」を、できるだけ減らしに行った。そのうえで、致命的な一点だけを直した。屋根の10分の1の傾斜。22年後、モデルのメトロドームが雪で崩壊した時、東京ドームだけが生き残った根拠がここにある。

ただし、これらの判断は無料ではなかった。

空気膜方式を採った代償として、東京ドームは送風機を止めることができない構造を抱え込んだ。1日20万円の電気代、36台のファン、54ヶ所の回転扉。38年間、ドームは文字どおり膨らみ続けている。空気膜方式そのものが世界的に袋小路になり、以後の新規採用がほぼ消えた。建てる時のコストと工期を圧縮した判断は、使い続けるコストと技術的孤立に姿を変えて、長期にわたって現れている。

初期投資に最適化するか、総保有コストに最適化するか。この問いに正解はない。何に賭け、どの時間軸で結果を見るかで答えが変わる。

東京ドームは、建設フェーズでは珍しいほど滑らかに走り切ったプロジェクトだった。38年後の今、滑らかに走れた理由と、滑らかさの代償の両方が、まだ現役の建物の送風機の音のなかで動き続けている。

出典・参考資料

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Project Timeline