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東京の下水道 — 普及完了という、インフラにとっての折り返し地点

合流式を選んだ日の判断が、1世代ごしに戻ってくる構造

1961年、隅田川の花火大会が中止になった。両国の川開きとして享保18年から続いた夏の行事が長期中断するのは、戦争を除けば初めてだった。理由のひとつが、川の水だった。

その年の東京23区の下水道普及率は22%。残りの78%の家庭から出た汚水と、工場の排水と、雨水が、生のまま隅田川に流れていた。夏の川面には工場排水と汚水の泡が浮かび、場所によっては硫化水素のにおいがした。

交通事情の悪化と、水質の問題が重なっていた。1961年の中止はそのまま慣行化し、隅田川の川開きは以後17年間、戻らなかった。

花火が復活するのは1978年。この年、23区の下水道普及率は70%に達している。

東京の下水道は、1884年の神田下水から始まり、1994年に区部でほぼ100%に達するまで、110年かけて作られた。管の総延長は現在およそ16,100kmで、東京とシドニーを一度往復できる長さに相当する。神田下水の初期区間が614mだったことを思うと、約26,000倍まで伸びたことになる。

このプロジェクトのやっかいなところは、「完成」した時点が始まりだったことだ。

Mission:コレラ5,000人と、オランダ人技師

1879年、日本でコレラが流行する。全国の死者は10万人を超えた。3年後の1882年、東京府内でもう一度流行し、死者は5,000人を上回る。神田、芝などの下町では、井戸水と地表の汚物が区別なく混ざって流れていた。

江戸時代の江戸には、玉川上水と神田上水という総延長150kmの飲料水システムがあった。地上の管路と木樋の組み合わせで、人口100万を超える都市に水を回す仕組みとしては、同時代のロンドンやパリより整っていた。

けれど汚物を外に出す側は、違った。江戸では屎尿を近郊農家が買い取る「下肥」の循環が機能していたが、都市人口が膨張した明治初期、この循環は追いつかなくなっていた。コレラ菌は、追いつかなくなった隙間を抜けてきた。

1883年、政府は東京府に「水道溝渠等改良ノ儀」を示達する。上水と下水の両方を西欧式に作り直すよう、府に指示した通達だった。

内務省技師の石黒五十二が設計を担当し、オランダ人お雇い工師ヨハネス・デ・レーケが助言を入れた。デ・レーケは1842年オランダ生まれ、1873年に31歳で来日し、神田下水の時点では41歳。治水の人としてこの時期の日本に広く知られていたが、神田下水の仕様書にも彼のサインが残る。

翌1884年、神田・鎌倉河岸あたりで最初の工事が始まる。断面は卵形の煉瓦造。卵形は水量が少ないときも底で流速が落ちない形で、下水管の古典的な設計だった。職人は手掘りで路面を割り、煉瓦を一枚ずつ下から積み上げてアーチを閉じる。石工の鏝が煉瓦のバリを削る音と、荷馬車が運ぶ石灰のにおい。それが明治17年の工事現場の音と匂いだった。

延長は614mで止まった。第3期工事は財政難で中止になり、神田下水は「見本」のまま残った。

一部区間は、140年を経て今も現役の下水道として使われている。千代田区のJR神田駅近くの地下に残る煉瓦の管に、2026年の下水が流れている。

Design:早く安く広く、を選んだ日

神田下水のあと、しばらく下水道の時計は止まる。

次に針を動かしたのは、ウィリアム・K・バートン。スコットランド、エジンバラ出身の衛生工学技師で、1887年に帝国大学工科大学の工学教授として来日した。内務省の衛生工事の嘱託も兼ねた。日本の衛生工学の最初の教師である。

バートンは東京、大阪、函館、長崎まで全国を回り、上下水道の計画をまとめて回った。1896年には教え子の濱野彌四郎を連れて台湾に渡り、台北で水源調査をしているあいだにマラリアに感染する。1899年、東京で病没した。43歳だった。

バートンの死後、下水計画の作業は日本人技師に引き継がれる。中心にいたのは中島鋭治。1858年、仙台生まれ。1883年に東京大学理学部土木工学科を首席で卒業、同大の助教授になり、1887年から3年、文部省の命で欧米に留学した。ドイツで水道工事、イギリスで上下水道、欧州各国の土木を見て歩いた留学だった。帰国後、1899年には早くも仙台市で合流式下水道の計画を書いている。『東京市下水設計調査報告書』は、その8年後、49歳の仕事である。神田下水の着工から数えて23年目になっていた。

中島の報告書には、ひとつ決定的な選択が入っていた。

合流式。雨水と汚水を1本の管でまとめて流す方式を、東京は選んだ。もうひとつの選択肢だった分流式では、雨水と汚水を別の管に分ける。衛生面では分流が優れているが、管が2本必要になるぶん工費が倍近くかかる。

早く、安く、広く。この3つを同時に進めるには、合流式しかなかった。

結果論を言えばこの選択は、戦後に東京を救い、そして現在の東京を縛っている。走り出すためのこの判断の請求書は、1世代ごしに届くことになる。

計画は1914年、大正3年に着工に入る。中心施設は、北部の荒川区三河島に置くことになった。三河島汚水処分場。日本で最初の近代下水処理場である。

建設の現場責任は、東京市技師の米元晋一にまわる。1878年、山口県生まれ。1903年に東京帝国大学土木科を卒業して東京市に入り、1911年に下水道改良事務所専任となる。同年7月、欧米の下水処理場を視察する派遣に出た。33歳の技師である。設計は中島、現場は米元という分担が決まった。

1922年、大正11年3月に三河島汚水処分場が運転を開始する。処理方式は、沈殿池と散水濾床の組み合わせ。主ポンプ室は赤煉瓦タイルに白い水平線が走る、セセッション様式の建築だった。沈砂池と濾格室が煉瓦のアーチで連なり、電動の渦巻ポンプが初めて重い振動を床に伝えた日、米元は44歳になっていた。生物処理と工業意匠の両方で、当時の欧州の最新を導入したことになる。

着工から運転開始まで8年。コレラの東京流行から数えると、ちょうど40年が経っていた。

Execution:22%から70%までの17年と、残り30%の16年

関東大震災、昭和恐慌、戦争。三河島が動き出してから戦後までの約20年、下水道の工事は細々と続いた末、1944年に全面停止する。工事は中断、鉄とセメントは兵器と工場に回された。

戦後の東京は、普及率5%以下の状態から再開する。昭和20年代は、まだ屎尿を汲み取り、荷車で運び、海と山に投棄する時代だった。

1961年、冒頭の花火中止の年、23区の普及率は22%。その前年の1960年に35%という統計もあり、算定方法で揺れる数字だが、どの数え方でも「市街地のおよそ8割が下水道の外にいた」のは事実だった。

東京都は1962年に「東京都下水道事業計画」を定める。目標は、1973年までに区部で100%。11年で78ポイント押し上げる計画だった。

この計画は、1964年の東京オリンピックで一度加速する。羽田から都心へのインフラ整備、首都高速、新幹線と並行して、下水道にも予算と優先順位が付いた。隅田川の浄化は、オリンピックの選手村と観客動線の問題でもあった。

1970年、都は目標年を1973年から1978年に修正する。「東京都下水道長期計画」。実質5年の後ろ倒しだった。

工事は進んだ。1961年に22%だった普及率は、1978年に70%まで届く。17年で48ポイント。この年、隅田川の花火が17年ぶりに戻った。1961年の中止と1978年の再開の間に、下水道管の総延長は数千キロ単位で伸びていた。

ここで、計画はもう一度ずれる。

70%までは順調だったが、残り30%で足が重くなった。既成の下町、業務地区、戦前の木造密集地。地下に水道管、ガス管、電線、電話線が走り、路面電車の廃線跡が残り、場所によっては地下鉄が交差する。新規開発地に敷くのと、既存の市街の下に通すのとでは、1mあたりの工期と工費が桁違いだった。

1978年に70%だった普及率は、1980年代後半まで80%台前半で粘り、1994年にようやくほぼ100%に達する。残り30%を埋めるのに16年。最初の70%とほぼ同じ時間がかかった。

計画は、1962年に「11年で」と設定した目標を、32年目に達成したことになる。工期倍率にして約3倍。しかし、数字だけを見て「大幅な遅延」と呼ぶのは、たぶん間違っている。計画を遅らせたのは楽観ではなく、ラストマイルという、順調なペースの延長では読めないフェーズの存在だった。

People:お雇い外国人から、都の技師へ

東京下水道の最初の100年に名前の残る技師は、きれいに世代が分かれている。

明治初期の神田下水では、オランダ人のデ・レーケ(1842年生まれ、来日時31歳)と、内務省の石黒五十二。設計の中心は外国人お雇い技師と、彼らに付いた若い日本人技師の組み合わせだった。デ・レーケは治水で呼ばれて来ていた人で、下水道は本業ではない。それでも神田下水の仕様書にはサインが残った。

次の世代、1887年に31歳で来日したバートンの時代になると、計画の軸は彼ひとりに集まる。帝大の教壇から全国の都市の下水計画を書き、台湾の衛生調査まで出向く。1899年、43歳で没するまで、彼は12年で日本の衛生工学の骨格を敷いた。

そのあとを引き継いだ中島鋭治は、1858年生まれの仙台人。1883年に東京大学土木工学科を首席で卒業している。1887年に文部省の命で欧米留学に出ており、バートン来日と同じ年に彼は留学で日本を離れていた。入れ替わりの構図である。帰国後、1899年に41歳で仙台の合流式下水道を計画した時点で、中島は既に「下水道の人」だった。東京の報告書を書いたのは49歳。お雇い外国人の時代が終わったあとの、日本側の最初の責任者となる。彼の報告書に外国人の署名はない。合流式か分流式かという設計判断を、彼は自分の判断として選び、将来のクレームと賞賛を両方引き受けた。

現場を回した米元晋一は、1878年山口生まれ。1903年に東京帝大土木科を卒業し、東京市に入った。1911年に下水道改良事務所の専任となったのは33歳。同年、欧米派遣に出て、ロンドンとベルリンの処理場を見て翌年帰国する。1914年の着工から1922年の運転開始まで、鉄筋コンクリートがまだ普及していない時代に、三河島の煉瓦と鉄の構造物を現場で立ち上げた。

デ・レーケ、バートン、中島、米元。順に、助言者、骨格の設計者、方針の決定者、現場の実装者と並ぶ。ひとつのプロジェクトを4世代の人が渡した。

技術の受け取りで興味深いのは、設計書と工事ごとの図面は日本語で引き継がれたのに対して、政策文書の一部は英語とドイツ語が併記されていた点である。1900年前後の日本では、設計の国語化は済んでいたが、公衆衛生の思想は輸入語のまま残っていた。この二枚舌が、戦後の普及期に効いた。普及率を数字で測るのはドイツ語由来の衛生統計で、現場で管を敷くのは職人の日本語だった。両方の言語を持った組織が、22%を70%に押し上げる局面で動いた。

Legacy:16,100kmと、まだ返していない借り

2026年現在の東京の下水道の数字を並べる。

区部の管路の総延長は約16,100km。マンホールが約49万個、公共汚水ますが約195万個。水再生センターが20カ所、年間処理水量は約20億m³で、東京ドーム換算で約1,600杯ぶん。ポンプ所が88カ所、年間揚水量は約9億m³。累積の下水道資産は帳簿上およそ6兆9千億円、全都道府県で最大の規模である。

旧三河島汚水処分場の喞筒場施設は、2007年に国の重要文化財に指定された。1922年の煉瓦造のポンプ場が、意匠財として保存される。すぐ隣では、現在の三河島水再生センターが毎日動いている。産業遺産と現役設備が同じ敷地に並ぶ構造になっている。

毎年秋には花火が隅田川に戻る。昭和34年に止まり、昭和53年に戻った水面の上で、1961年の中止を知る観客は年々減っていく。

ここまでは「成功したインフラ」の数字の話だ。もうひとつの数字は、まだ返していない借りの側にある。

東京の下水道のうち、現在もおよそ30%の区域が合流式のまま残っている。山手線の内側、つまり都心の古くから市街地だった区域に限ると、合流式の比率は約8割に達する。1907年に中島鋭治が選んだ方式が、都心のほぼ全てで今も生きている。

合流式には固有の問題がある。強い雨が降ると、雨水と汚水が合流管の中で混ざり、処理場の処理能力を超える。超えた分は、未処理のまま川や海に放流される。合流式越流水、CSO。年に数十回、短い時間だけ、1922年以前のような放流が起きる。

これを解決する方法として、分流式への全面転換という選択肢がある。試算によれば、年2,250億円が必要で、置き換えに数十年かかる。実質的には選べない。

東京都は代わりに、合流式のまま水質を担保する設計で走っている。千代田幹線はその象徴である。千代田区飯田橋から港区港南まで、全長8.7kmの大深度幹線。地下約50mを、鉄道12路線と交差しながら通す。シールド機は2020年10月に初期掘進を始め、2024年10月に到達した。4年で8.7km、1日あたり6m強の進度である。地上の飯田橋駅のホームから足元に50mの垂直距離を落として、そこを刃口が無音で削り続けていた4年だった。2026年の開通を予定している。

一度に8.7kmを掘るこの工事は、日本の下水道シールド工事としては最長である。目的は新しい処理能力の追加ではない。既設幹線の老朽化対策と、水質改善を同時にやる代替路の整備である。

全国の下水道で、2030年度までに口径2m以上の管およそ5,000kmが更新対象として指定されている。設置から30年以上経った管を、順に作り替える国土強靱化の計画である。東京に限らず、戦後に敷いた管が、まとめて更新のタイミングを迎えている。

区部の普及率がほぼ100%になった1994年を「完成」と呼ぶとすれば、その完成の32年目に、東京の下水道は再び建設の時代に戻っていることになる。

学び:100%を達成した日に、次の100年が始まる

東京下水道の110年を貫いているのは、ひとつの構造である。

早く、安く、広く作るための判断は、プロジェクトを前進させるときには正しい。合流式の採用は、戦後の爆発的な普及拡大を可能にした。11年計画の設定は、オリンピックの政治推進力に接続する装置になった。両方なしに、22%から70%への17年間はなかった。

同じ判断が、普及完了のあとに別の顔を持つ。合流式はCSOの負債として、年間2,250億円の分流式転換試算という形で戻ってくる。11年計画は、ラストマイルの16年という形で、計画の作法そのものを問い直させる。1994年に区部100%を達成した時点で、今度は「老朽化した16,100kmをどう作り替えるか」という、普及期とは別の規模のプロジェクトが始まる。

東京の下水道は、まだ終わっていない。1884年の神田下水614mから142年、1994年の100%達成から32年、2026年の今も、地下50mで新しい幹線が通ったばかりだ。この先の30年、都は作り替えの時代に入る。前の100年と同じ金額を、次の100年にかけ直すことになる。

140年を超えた大規模インフラの価値は、「作った」ことではなく「作り続けている」ことで決まる。これは、下水道だけの話ではない。戦後の日本が整えた道路、水道、電力網、鉄道、どれも同じ更新サイクルに差し掛かっている。

もしあなたが、何かひとつのプロジェクトを「完成」で区切ろうとしているなら、立ち止まって考えてほしい。完成の瞬間に、次のプロジェクトの計画が立っているか。前の判断が将来に送った請求書が、どのくらい残っているか見えているか。

「普及完了」はゴールではなく、次の建設サイクルの起点である。東京の地下で、2026年の下水が、1884年の煉瓦管の脇を流れている。

出典・参考資料

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Project Timeline