Execution Atlas
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大西洋横断電信ケーブル — 2週間を2分にした12年間

4回失敗し、1度成功し、3週間で壊れ、もう1度成功した。

2,000海里。銅線34万マイル。グッタペルカ300トン。大西洋の水深3,700メートル。

1858年以前、ロンドンからニューヨークへの連絡には船で10日から2週間かかった。株価も外交文書も戦争の知らせも、すべて海の速度で動いていた。情報は地理に縛られていた。

1866年、それが2分になった。

Mission:地球儀の上の直線

1854年1月。フレデリック・ギズボーンという電信技師がニューヨークを訪れた。ニューファンドランド島に電信線を引く計画が破綻し、5万ドルの借金を抱えていた。資金援助を求めて訪ねたのが、サイラス・ウェスト・フィールドだった。

フィールドは製紙業で財を成し、33歳で引退していた。牧師の息子で、10人兄弟の8番目。15歳でA.T.スチュワート商会の使い走りに入り、年俸50ドルから始めた人間だ。34歳のとき、ギズボーンの話を聞きながら地球儀を見ていた。ニューファンドランドからアイルランドまで、指でたどれば一直線だった。

ニューファンドランドまで電信を引くのではなく、そこから大西洋の底をアイルランドまで延ばせないか。

フィールドは2人の専門家に相談した。海洋学者マシュー・モーリーと、電信の発明者サミュエル・モールス。モーリーは大西洋の海底調査で、ニューファンドランドからアイルランドにかけて平坦な台地があることを発見していた。「まるで電信線を支えるために置かれたような台地がある」とモーリーは言った。モールスは技術的に実現可能だと答えた。

3月、フィールドは自宅の食堂に4人の投資家を集め、4夜連続で会議を開いた。実業家ピーター・クーパー、後のシティバンク頭取モーゼス・テイラー、船主マーシャル・ロバーツ、製紙業仲間のチャンドラー・ホワイト。4人ともフィールドの食堂を出るときには出資を決めていた。

この夜を境に、ニューヨーク・ニューファンドランド・ロンドン電信会社の設立が動き出した。

Design:二乗法則と2,000ボルト

1856年10月、ロンドンで大西洋電信会社(Atlantic Telegraph Company)が設立された。資本金35万ポンド。投資家345名。チーフエンジニアに任命されたのはチャールズ・ブライト、24歳だった。

ブライトの父は破産していた。大学に行けず、15歳で電信会社に入社した。20歳でエンジニア、21歳でイギリス〜アイルランド間の海底ケーブル敷設を監督している。才能に年齢は関係ないという話ではない。才能があっても金がなければ大学には行けないという話だ。

ケーブルの設計には2つの思想が衝突した。

ウィリアム・トムソン(後のケルビン卿)は32歳で取締役に就任した物理学者だ。10歳でグラスゴー大学に入学し、22歳で教授になった人間で、ケーブルの信号に関する根本的な問題を理解していた。海底ケーブルはコンデンサのように振る舞う。電気信号を蓄え、じわじわと放出するため、長くなればなるほど信号がぼやける。その劣化はケーブルの長さの二乗に比例する。トムソンはこれを「二乗法則」と呼んだ。

トムソンの処方箋は明快だった。低電圧、太い導体、最高純度の銅。微弱な信号を読み取るために鏡検流計を発明した。鏡に光を反射させ、微弱な電流の変化を光点の動きとして増幅する装置だ。

これに対し、主任電気技師のエドワード・ホワイトハウスは正反対のことを言った。高電圧で押し込めばいい。細い線でいい。ホワイトハウスは外科医で、電気工学は独学だった。1856年の英国学術協会で、トムソンの二乗法則を公然と否定している。

1858年のケーブルはホワイトハウスの仕様に近いものが採用された。芯線は銅線7本撚り、107ポンド/海里。トムソンとブライトが推奨した392ポンド/海里の約4分の1。絶縁にはグッタペルカ(東南アジア産の樹液から作る天然ゴム)を3層巻いた。外装は鉄線とタール含浸麻。直径は約16ミリ。ケーブル1マイルに133マイル分の針金が使われた。

2社がケーブルを製造した。グラス・エリオット社とR.S.ニューアル社。2社のケーブルは撚り方向が逆だったことが後に判明する。接合は可能だったが、設計の統一すらできていなかった。

Execution:嵐と断裂と2,000ボルト

第1回(1857年)

1857年8月5日。米海軍フリゲート「ナイアガラ」と英海軍艦「アガメムノン」がアイルランドのバレンシア湾を出港した。初日にケーブルが断裂。回収して修復。約380マイル地点で再び断裂。水深10,500フィート。回収不能。300マイル分のケーブルが大西洋の底に沈んだ。

第2回(1858年6月)

6月10日に出港した2隻は、大西洋中央で合流してケーブルを接合する方式に変更していた。6月20日頃、大嵐が来た。

ケーブルを満載した船は重心が高く、ひどく揺れた。6日間。アガメムノンでは45名が負傷した。トムソンの電気実験室は浸水した。石炭貯蔵庫が崩壊し、石炭が甲板下に散乱した。船を救うためにケーブルを切り捨てる寸前まで追い込まれた。

6月25日、大西洋中央で合流。ケーブルを接合。3海里で断裂。接合し直す。54海里で断裂。もう一度接合。200海里で断裂。

帰港。累計損失250万ドル。取締役の一部はケーブルを売却して解散することを提案した。フィールドが続行を説得した。

第3回(1858年7-8月)— 成功

7月17日、再出港。7月29日、大西洋中央での接合に成功。8月5日、約2,000海里の敷設が完了した。ナイアガラがニューファンドランドのトリニティ湾に、アガメムノンがアイルランドのバレンシア島に到着。

8月16日、ケーブルが公式に開通した。ヴィクトリア女王がブキャナン大統領に98語のメッセージを送った。送信に16時間半かかった。

ニューヨークでは100発の祝砲が轟いた。街中に旗が翻り、教会の鐘が鳴った。祝賀の花火で市庁舎の屋根に火がついた。ティファニーはナイアガラの余剰ケーブルを買い取り、4インチに切って50セントで記念品として販売した。「ATLANTIC TELEGRAPH CABLE / GUARANTEED BY TIFFANY & CO.」と刻まれた真鍮の帯がついていた。

ブキャナン大統領の返信: 「これは戦場で勝ち取ったどんな勝利よりも栄光ある勝利だ。なぜなら、人類にとってはるかに有用だからだ。」

ケーブルの死

伝送速度は1文字に約2分。0.1語/分。約3週間で732通のメッセージが送られた。

トムソンの鏡検流計は微弱な信号を明瞭に読み取っていた。しかしホワイトハウスは自分の機器を接続し、最大2,000ボルトの高電圧をケーブルに印加した。グッタペルカの絶縁が焼けた。信号は日を追うごとに弱くなり、10月20日に完全に途絶えた。

ホワイトハウスは性能の低下を隠そうとした。解任された。英国調査委員会は高電圧が主因と結論づけた。

732通のうち1通は、英国政府がカナダへの軍隊派遣命令を撤回する電文だった。この1通で5〜6万ポンドが節約された。ケーブルへの英国政府の年間投資額の約7倍だ。

1858年の成功と失敗には7年の空白が続いた。南北戦争が間に入った。フィールドは「以前は英雄と称えられたのと同じ激しさで非難された」。

第4回(1865年)— グレートイースタン号

1864年、ジョン・ペンダーがケーブル製造会社Telconを設立し、個人資産25万ポンドを保証に入れた。同年1月、ダニエル・ゴーチがグレートイースタン号をオークションで購入した。12万5,000ドル。建造費500万ドルの船だった。

グレートイースタン号は全長211メートル。イザムバード・キングダム・ブルネルが設計した当時世界最大の船で、ケーブル全量を1隻で運搬できる唯一の船だった。

改良型ケーブルは1858年型の約3倍の銅を使い、総重量は2倍の4,000ポンド/海里になった。トムソンの仕様がようやく採用されたのだ。

7月23日、アイルランドを出港。数回の障害を修復しながら敷設を続けた。8月2日、1,062海里を敷設したところでケーブルが船尾付近で断裂した。全行程の3分の2。残り3分の1の地点だった。水深2,000ファゾム(約3,700メートル)。回収を試みたが、失敗した。

第5回(1866年)— 最終成功

7月13日、グレートイースタン号がバレンシアを出港した。2,730海里分のケーブル、7,000トンを積んでいた。

14日間、何も起きなかった。

7月27日、ケーブル敷設完了。1,852マイル。ニューファンドランドのハーツコンテントに到着。フィールドの第一報は “Thank God, the cable is laid.” だった。伝送速度は8語/分。1858年の80倍。

8月、グレートイースタン号は大西洋中央に引き返し、前年に断裂した1865年のケーブルを探した。30回以上のグラップリング(海底からの引き上げ)を試行。回収に26時間かかった。新しいケーブルを接合し、ハーツコンテントまで敷設。9月8日、2本の大西洋横断ケーブルが同時に稼働した。

フィールド、34歳で構想し、46歳で完成させた。大西洋を30回以上横断した。毎回船酔いした。

People:34歳、24歳、32歳

このプロジェクトの登場人物には共通点がある。若いか、異端か、その両方だ。

サイラス・フィールド、34歳。使い走りから身を起こした製紙業者。電信の技術者でもなければ、海洋工学の専門家でもない。ただ地球儀を見て直線を引いた人間だ。4回の失敗と7年の空白を経ても諦めなかった。1867年に議会金メダルとパリ万博グランプリを受賞したが、晩年はジェイ・グールドとの投資で全財産を失い、72歳で亡くなった。墓碑銘にはこう刻まれている。「その勇気、精力、忍耐力に世界は大西洋電信を負う。」

チャールズ・ブライト、24歳でチーフエンジニア。父の破産で大学に行けなかった少年が、15歳で電信会社に入り、26歳で世界初の大西洋横断ケーブルを敷設し、ナイト叙勲を受けた。史上最年少クラスの叙勲だった。その後は地中海、ペルシャ湾、カリブ海でケーブルを敷き、自由党の国会議員になり、55歳で死んだ。

ウィリアム・トムソン、32歳で取締役。10歳で大学に入り、22歳で教授になった天才物理学者。ケーブルの物理を正しく理解していた唯一の人間だった。鏡検流計を発明し、全敷設航海に乗船した。1866年にナイト叙勲、1892年にケルビン男爵。科学者として初めて貴族院に入った。

エドワード・ホワイトハウス。外科医。独学の電気技師。トムソンの理論を公然と否定し、2,000ボルトでケーブルを殺した男。解任後、歴史は彼をほぼ悪役として記憶している。ただし1985年の分析で、ケーブルの製造不良と保管中の絶縁劣化が発見されており、ホワイトハウスがいなくてもケーブルは遠からず死んでいた可能性がある。歴史の悪役は、ときどき部分的に名誉を回復される。

Legacy:2週間が2分になった日

1866年の電報料金は1語10ドル、最低10語で100ドル。熟練労働者の10週分の賃金だった。それでも月1,000通の電報が流れ、90%がビジネス用途だった。

大西洋を挟んだ米国債の価格差は5〜10%から2〜3%に縮小した。リバプール〜ニューヨーク間の綿花価格差は2.56ペンス/ポンドから1.65ペンスへ、3分の1以上縮んだ。情報が地理から解放された瞬間、裁定取引の余地は消えた。

外交も変わった。大使は数週間の判断猶予を失い、数時間で本国の指示を受けるようになった。1866年、米国務省がパリに送った暗号電報1通の費用は2万ドルだった。国務省の年間予算は15万ドルだ。

1869年にはフランスが独自のケーブルを敷設し、料金競争が始まった。1900年には15本のケーブルが大西洋を横断し、伝送速度は120語/分に達した。

為替市場では、英ポンド/米ドルの為替ペアは今でも「ケーブル」と呼ばれている。1866年から160年経った用語だ。

アーサー・C・クラークは大西洋横断ケーブルを「ヴィクトリア朝の月面着陸」と呼んだ。

英国調査委員会は、ホワイトハウスの失敗を調査する過程で、電気測定の標準単位を勧告した。この勧告が後のオーム、ボルト、アンペアの国際標準につながっている。失敗の調査が、科学の基盤を作った。

学び

フィールドは電信の技術者ではなかった。海洋工学の専門家でもなかった。彼が持っていたのは、地球儀の上に直線を引く発想と、4回失敗しても5回目に挑む執念だけだった。

プロジェクトの発案者に専門知識が必要かどうかは、ケースによる。ただし、この事例が示しているのは、専門家だけで構成されたチームは「不可能」の証明に長けているということだ。フィールドはそれを知らなかったから、やった。

ホワイトハウスとトムソンの対立は、科学と経験主義の衝突だった。トムソンの二乗法則は正しかった。ホワイトハウスの高電圧は間違っていた。だが1858年のケーブルはホワイトハウスの仕様で作られた。正しい理論を持つ人間が組織の意思決定で負けることは、珍しい話ではない。

1866年の改良型ケーブルは、1858年の失敗から学んだ設計だった。銅の量を3倍にし、絶縁を4層にし、トムソンの仕様を全面採用した。失敗は設計の母だ。ただし、それには失敗を正確に分析する調査委員会と、分析結果を設計に反映する意思決定者が必要だった。失敗そのものには価値がない。失敗の分析に価値がある。

グレートイースタン号は500万ドルで建造され、旅客船としては大赤字だった。12万5,000ドルで競売にかけられ、ケーブル敷設船として歴史を変えた。あるプロジェクトの失敗作が、別のプロジェクトの決定的な資産になることがある。用途が間違っていただけで、モノ自体は間違っていなかった。

出典・参考資料

Project Timeline