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明治維新 — 261藩を1日で消し、13年で国家の骨格を作った

計画は存在しない。順序だけが勝負だった

1871年7月14日の朝、皇居の広間に、全国から呼び集められた知藩事たちが並んでいた。元の藩主たちだ。

彼らは、何を告げられるのか知らなかった。前日までの通達には、何も書かれていない。

明治政府は、その場で通告した。本日をもって、藩を廃止する。261の藩はすべて県になる。知藩事は失職し、東京に居住を命じる。

抵抗する時間は与えられなかった。皇居の外には、薩摩・長州・土佐から集められた御親兵1万人が配置されていた。5カ月前に、政府が密かに編成していた。

その日のうちに、264年続いた幕藩体制が消えた。

これは1868年から1881年までの13年間、計画書を持たないまま国家を書き換え続けた、ある改革の物語である。

Mission:ふたつの国家を、ひとつにする

幕末の日本には、国家が2つあった。

江戸の中央政府と、261の藩の地方政府。両者は税制も度量衡も軍制も通貨も、別々に運用していた。薩摩で流通する藩札は、長州では紙切れだった。奥州と中国地方で、年貢の計算方法が違う。藩境を越えると、別の国に入るような手続きが必要だった。

これが260年続いた。平和な時代なら問題はなかった。各藩が内部で完結していれば、全体最適を考える必要がない。

1853年、黒船が来た。

欧米列強が要求したのは、国家として交渉できる相手だった。幕府が条約を結んでも、各藩がそれを守るとは限らない。実際、1863年に長州は下関で外国船を砲撃した。幕府の方針とは関係なく、各藩が独自に動く。欧米から見れば、日本は交渉相手として不備があった。

1858年、幕府は不平等条約を結ばされた。関税自主権なし、治外法権あり。この条約を改正するには、日本を「一つの国家」にまとめる必要があった。

1867年、徳川慶喜が大政奉還。翌1868年1月3日、王政復古の大号令。戊辰戦争が始まり、同年3月14日に五箇条の御誓文が公布された。

五箇条の御誓文は、新政府の最初の公式文書だ。本文は300字に満たない。

「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」。原案を由利公正が起草し、木戸孝允が「列侯会議」を「廣ク會議」に書き換えた。公家や大名だけでなく、藩士や庶民も含めた公論で国を動かすという宣言になった。

これは方針表明であって、計画書ではない。どんな制度を作るか、どんな順序で作るか、どれだけの時間と金がかかるか、何も書かれていない。

国家を書き換える宣言だけが先に存在し、設計図は後から走りながら描くことになる。

Design:計画は無い、順序だけがある

明治政府に全体工程表は存在しない。だが「順序」は精緻に設計されていた。

第一段階:知藩事という緩衝材(1869)

1869年6月、版籍奉還。各藩主が「版」すなわち領地と、「籍」すなわち領民を、天皇に返還した。

ただし、藩主たちは「知藩事」として現職にとどまった。藩収入の一割が知藩事の俸給として約束された。表向きは領地の返還だが、実質は何も変わらない。藩主は従来通り藩の統治を続けた。

これが制度変更の心理的コストを分割払いにする仕掛けだった。「土地と人民を天皇に返す」という最大の変更を先に飲ませてしまえば、次に「あなたを知藩事から解任する」と言うときのハードルが下がる。版籍奉還の時点で、藩主たちは既に自分の統治機能を手放していた。知藩事は、天皇から委任されて業務を執行する官僚である。

2年間、藩主たちはこの中途半端な立場に慣らされた。

第二段階:鎮圧装置を先に用意する(1871年2月)

1871年2月、政府は薩摩・長州・土佐の3藩から約1万人を集めて、御親兵を編成した。政府直属の軍である。

名目は「御所の警護」。だが実質は、改革に抵抗する藩を鎮圧するための実力装置だった。

このタイミングが重要だ。改革を宣言する前に、鎮圧できる体制を先に組んだ。順序を逆にして、廃藩置県を先に宣言していたら、各藩が独自の兵を動員して鎮圧できなくなっていた可能性がある。

第三段階:一斉通告(1871年7月14日)

1871年7月14日の朝、知藩事を皇居に集めて、廃藩置県を通告した。藩単位の個別交渉はしない。全員を同じ場所に集めて、同じ瞬間に通告する。

これは意図的な設計だ。個別交渉になれば、261藩それぞれに歴史と権益がある。順次廃止すれば数十年かかる見込みだった。一斉通告なら、「他も飲むなら自分も飲む」という同調圧力が働く。反発を組織化する時間を与えない。

当日に全藩が消滅した。知藩事は上京を命じられ、各県には中央政府から県令が派遣された。無血の中央集権化が完了した。

版籍奉還から廃藩置県まで、2年と1カ月。この順序でなければ機能しなかった。

Execution:主力が留守の間に、国を書き換える

廃藩置県の4カ月後、1871年11月12日、岩倉使節団が横浜を出港した。

特命全権大使は岩倉具視。副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳。政府の中枢がほぼまるごと乗船した。目的は、米欧12カ国を視察し、不平等条約の改正交渉を打診することだった。出発時の人数は46名。随行の留学生を含めると107名。期間は1年10カ月に及んだ。

国を書き換える真っ最中に、主力が1年以上国を離れた。普通ならありえない。

東京には「留守政府」が残った。首座は西郷隆盛。参議は板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信。留守政府との間には「大規模な改革は使節団帰国まで控える」という申し合わせがあった。

申し合わせは、守られなかった。

学制(1872年8月)

全国を8大学区に分けた。各大学区をさらに32中学区に、各中学区をさらに210小学区に分けた。全国で8大学区・256中学区・5万3760小学区。この区画の中にすべて学校を作る計画だった。

当時の日本に、これだけの教員はいない。校舎もない。だが制度は先に作った。実態の整備は後からついてくるという前提だった。

徴兵令(1873年1月)

全国民から兵を徴集する制度。士族の軍事独占を終わらせた。約190万人いた士族は、戦う権利を独占してきた層だった。それを、満20歳以上の男子全員から籤引きで集める方式に置き換えた。

士族の経済基盤はまだ家禄が残っていたが、存在意義の片方は既に消えた。

地租改正条例(1873年7月28日)

これが最大の改革だった。

江戸時代の年貢は、石高制・物納・不定率だった。石高で収穫量を推定し、米で納め、豊凶で税率が変動する。これを、地価制・金納・定率3%に変えた。土地に地価を付け、所有者に地券を発行し、現金で納めさせ、豊凶に関係なく一定率を徴収する。

国家が税収を予測できる体制になった。江戸時代の年貢は、米の収穫と米価に左右され、政府の歳入が毎年変動した。定率金納なら、歳入は安定する。1875年、大隈重信は日本初の予算を公表した。歳入4873万円、歳出4659万円、黒字214万円。国家が「予算」という概念を持つのは、この時が最初だった。

地租改正の実務完了には8年かかる。全国の全耕地・宅地・山林・原野に地価を算定する作業だったからだ。耕地と宅地は1879年、山林原野を含めた全完了は1881年。1881年の地租収入は4327万円で、国家歳入の70.2%を占めた。

1873年9月、使節団帰国

大久保と木戸は、欧米の近代化を目の当たりにしていた。鉄道、電信、工場、議会、法典。日本との差は圧倒的だった。「今、外征をする時ではない」が彼らの結論だった。

帰国すると、留守政府では既に、西郷隆盛を朝鮮に派遣することが閣議決定されていた。朝鮮に外交挑発を仕掛け、戦争の口実を作る。征韓論である。西郷は自ら使節として朝鮮に乗り込み、殺される覚悟も含めて提案していた。

ここで大久保が動いた。1873年10月、岩倉と三条実美を動かし、天皇の裁可で西郷派遣を無期延期にした。

西郷、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平の5参議が一斉辞職した。明治六年政変。

政府中枢から薩摩系の軍事派閥が離脱した。改革は加速する。だがその代償は、4年後に届く。

People:薩長土肥と公家の連合

明治政府は、特定のリーダー1人が率いた組織ではない。背景の違う人物の連合体だった。

大久保利通。1830年生まれ、薩摩藩士。廃藩置県のとき41歳。征韓論政変のとき43歳。冷徹な現実主義者で、感情を表に出さない。彼が1873年10月に提出した意見書にはこう書かれている。

「今、内治ノ事ニ力ヲ用ヒ、民力ヲ養ヒ、国本ヲ培フハ、万死ノ中、一生ヲ得ルノ策ナリ」

今は内政に力を注ぎ、民の力を養い、国の基盤を培うことが、万に一つの生き残りの道である。征韓論に対する否決の論理は、これだけだった。

木戸孝允。1833年生まれ、長州藩士。五箇条の御誓文で「列侯会議」を「廣ク會議」に書き換えた制度設計者。岩倉使節団に副使として同行した。帰国後は体調を崩しがちで、1877年の西南戦争中に京都で病死。43歳。

西郷隆盛。1828年生まれ、薩摩藩士。戊辰戦争の指揮官、御親兵の実質的な司令官、留守政府の首座。征韓論政変で下野し、鹿児島に戻って私学校を開いた。1877年、西南戦争で薩軍を率いて敗北、城山で自刃。49歳。

岩倉具視。1825年生まれ、公家。使節団の特命全権大使。公家出身で薩長土肥のどの藩閥にも属さないため、調整役を担った。1873年の征韓論政変では、大久保と組んで西郷派遣を阻止した。

大隈重信。1838年生まれ、肥前藩士。征韓論政変時、35歳。留守政府で財政を担当し、1875年の初予算公表を実施した。後に自由民権運動、立憲改進党、早稲田大学創設。84歳まで生きた。

由利公正。1829年生まれ、越前藩士。五箇条の御誓文の原案を起草した。公家でも薩長でもなく、幕末の経済顧問として横井小楠に学んだ人物。公論政治の原案は、藩閥の外から来た。

彼らの平均年齢は、廃藩置県の時点で40代前半。幕末に20代後半で志士として動き、30代で政権を握り、40代で国家を再設計した。「若い」という事実が、改革の速度を規定していた。

Legacy:13年で国家の骨格が完成する

秩禄処分と士族反乱の代償は、1876年から1877年にかけて届いた。

1876年8月、秩禄処分。士族約190万人の家禄を金禄公債に強制転換した。現金支給を打ち切り、公債で一括精算する。士族の経済基盤を一撃で奪った。国家財政の約30%を占めていた支出が整理された。

同年中に、神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)。翌1877年1月、西郷の私学校生が蜂起し、西南戦争が始まった。

政府軍は約8万人を動員した。薩軍は約3万人。1877年9月24日、西郷が城山で自刃して戦争が終わった。日本最後の内戦になる。

西南戦争の戦費は約4100万円。1875年の歳入4873万円に匹敵する額だった。だが地租改正が進んでいたため、財政は耐えた。士族の武力は決着し、政府の中央集権化は完成した。

1878年5月14日、大久保利通が東京の紀尾井坂で暗殺された。47歳。西南戦争の鎮圧者であり、征韓論政変の勝者であり、秩禄処分の推進者だった。恨みを集めすぎた。遺言はない。彼が計画していた殖産興業の路線は、伊藤博文と大隈重信に引き継がれた。

1881年、地租改正が全国で完了した。地租収入4327万円は国家歳入の70.2%を占めた。国家が自立した税基盤を持つことに成功した。

1881年までに整った制度の骨格は、以下の通りだ。

中央集権的な行政機構(府県制)。国民皆兵の軍制(徴兵令)。全国民を対象とする教育制度(学制)。地価ベースの定率金納税制(地租改正)。士族の家禄を精算した財政(秩禄処分)。日本初の予算(大隈の公表)。

この骨格の上に、1889年の大日本帝国憲法と1890年の帝国議会開設が重なる。立憲国家としての体裁が整うのは1890年だが、国家としての基礎工事は1881年までに終わっていた。

商鞅が紀元前356年に秦で始めた変法と、構造は似ている。血縁や身分で分けられていた社会を解体し、国家が個人を直接把握する体制に組み替える。商鞅は21年かけた。明治政府は13年で終えた。

学び

明治維新に、全体の計画書はなかった。五箇条の御誓文は300字に満たない方針表明で、工程表としては機能しない。各改革は走りながら設計された。学制の256中学区も、徴兵令の籤引き方式も、地租改正の3%税率も、事前に長期計画で決まっていたわけではない。

だが順序の設計は精緻だった。

版籍奉還の2年後に廃藩置県。御親兵を集めた5カ月後に廃藩置県。廃藩置県の1年後に学制。学制の5カ月後に徴兵令。徴兵令の7カ月後に地租改正条例。秩禄処分の5カ月後に士族反乱。

この順序の一つでも入れ替わっていたら、改革は破綻していた可能性が高い。

もし版籍奉還の前に廃藩置県を宣告していたら。藩主たちは「土地と人民を取り上げられる」ことに全力で抵抗した。261藩がそれぞれ軍を動員して反乱すれば、新政府の兵力では鎮圧できない。

もし御親兵を集める前に廃藩置県を宣告していたら。鎮圧装置がないので、各藩の反発を実力で抑えられない。

もし徴兵令の前に秩禄処分を実施していたら。士族の家禄だけを奪われて、軍事的な存在意義は残る。士族反乱は西南戦争の規模では済まなかった。

もし地租改正の前に西南戦争が起きていたら。財政基盤がないので、戦費4100万円を調達できない。

計画書は不確実性で陳腐化する。だが順序は、因果関係に基づくので陳腐化しない。「Aの後にBをやる」の順序は、Aの中身がどう変わってもBの前提として機能する。

明治維新が成功したのは、「何をやるか」の計画が優れていたからではない。「何の後に何をやるか」の順序設計が優れていたからだ。

もう一つ、順序設計には副作用がある。

順序を精緻に組むには、全体を見通せる人間が必要になる。1人のPMではなく、少人数のコアチームが同じ地図を共有していなければ、順序は組めない。大久保、木戸、西郷、岩倉、大隈。少なくともこの5人は、1868年から1873年まで、何の後に何をやるかの全体感を共有していた。

その共有が壊れた瞬間が、1873年10月の明治六年政変だった。征韓論の是非ではなく、「次の順序」で意見が割れた。使節団組は内政を次に置き、留守政府組は外征を次に置いた。順序の違いが、政権の分裂につながった。

順序設計で改革を進めるチームは、順序の違いで分裂する。これが代償である。

計画書を持たない大改革は、設計者たちが同じ順序を見ている間だけ機能する。見えているものが違ってきた瞬間、改革の推進力そのものが分裂の原因になる。

明治政府の中枢5人のうち、1877年に木戸が病死、1877年に西郷が自刃、1878年に大久保が暗殺された。順序を共有していた中核が、わずか2年で3人消えた。それでも制度は残った。順序設計がすでに完了していたからだ。

計画書は制度を作らない。順序が制度を作る。そして順序が完了した後は、設計者がいなくなっても制度は走り続ける。

出典・参考資料

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