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ザ・ライン — 「象徴」を約束したプロジェクトが、なぜ撤退すらできないのか

170キロメートル。高さ500メートル。幅200メートル。

2021年1月、サウジアラビアの皇太子は国営テレビで170kmの直線都市を発表した。鏡面ガラスの双子の超高層構造体が、紅海沿いに東京タワーの1.5倍の高さで連なる。900万人が住む。自動車は走らない。すべてが徒歩5分以内。エネルギーは100%再生可能。

2024年10月、サウジアラビアは「2030年までに完成させるのは中央の5km区間」と公式に発表した。当初構想の3%。住民計画は900万人から30万人未満に書き換えられた。

2025年9月、PIF(公的投資基金)が建設を一時停止した。

2026年4月、PIFは投資優先順位をAIインフラに切り替えると発表した。

絵が、設計より先に発表されたプロジェクトだった。

Mission:石油の次の物語

サウジアラビアの政府歳入の約60%は石油でできている。GDPの構成比は石油・天然ガスで30%を超える。石油は無限ではないし、世界はすでに脱炭素へ動いている。石油国にとって「ポスト石油」は宗教的なテーマではなく、財政的な期限のあるテーマだ。

2016年4月、ムハンマド・ビン・サルマン(当時副皇太子、皇太子就任は翌2017年6月)はVision 2030を発表した。経済の脱石油化と観光産業の育成。「巡礼以外の理由でサウジに来る外国人を増やす」という、それまでの国家戦略の真逆の方針だった。

NEOMはその核として2017年に発表された。タブーク州の北西部、紅海沿岸の26,500km²。ベルギーの面積に近い。新しい都市国家を作るというビジョンで、サウジ国内の規制が及ばない経済特区として設計された。「NEO」はギリシャ語の「新しい」、末尾の「m」はムハンマド・ビン・サルマン皇太子の頭文字とアラビア語の「未来(mustaqbal)」をかけている。

最初に発表されたThe Lineは、いまの姿とは違っていた。2021年1月10日、皇太子は国営テレビで「全長170kmのカーボンゼロ都市」を披露した。人口100万人、車のない街路、すべての施設が徒歩5分以内。比較的穏当な構想だった。

ビジョンが膨張したのは1年半後。

2022年7月、皇太子は新しい設計を発表する。同じ170kmを「高さ500m、幅200mの鏡面ガラス構造体」に置き換え、人口を900万人に引き上げ、内部にスタジアム・空港・高速鉄道を統合する。世界最長の建築構造物。世界最大の単一施設。複数の「世界最大」「世界初」を同時に成立させるプロジェクト。

要件は3つの上位目標を抱えた。第一に、ポスト石油の象徴。第二に、観光収入の柱。第三に、外資と外国人材の誘致装置。それぞれが異なる時間軸と異なる成功条件を持っていた。

「なぜ我々は混雑と汚染のために何百年も伝統的な都市を受け入れ続けてきたのか?」。皇太子は発表でそう問いかけた。問いの形をした構想だった。

Design:建築家が現実を撤退させた瞬間

設計上、The Lineは3つの困難を同時に抱えていた。

1つ目は構造工学。高さ500m、幅200m、長さ170kmの鏡面ガラス構造体に900万人を収容する設計は、前例がない。同等の床面積を確保するには、超高層ビルを17,000棟連ねるのに等しい。風荷重、地震荷重、温度応力、ガラスファサードの清掃と交換、地震活動のあるアカバ湾沿岸の地盤。どれも個別には解ける問題だが、170km連続体としては解かれたことがない。

2つ目は環境工学。砂漠気候で外気温は夏に50℃を超える。鏡面ガラスの巨大構造体は太陽光を集めるし、内部の冷房負荷は膨大になる。100%再生可能エネルギーで賄うには、外部に膨大な太陽光発電・風力発電・蓄電施設が必要だった。NEOMは隣接地に大規模なグリーン水素プラントを計画しているが、運用開始は2026年以降。

3つ目は人口工学。サウジアラビア全土の人口は約3,500万人。そのうち900万人を1つの直線都市に集めるには、国内移住か、外国人居住者の大規模誘致のどちらか。前者は「リヤドやジッダが空く」ことを意味し、後者は「西側の専門職と家族がサウジに長期居住することを選ぶ」ことを前提にする。どちらの前提も検証されていなかった。

3つの困難は互いに連動していた。鏡面ガラス構造体の冷房コストを下げるには高さを抑えればいい。高さを抑えれば床面積が減る。床面積が減れば900万人が入らない。900万人が必要なら高さを上げる。冷房コストが膨らむ。

「都市」というより「相互に拘束する制約の束」だった。

建築コミュニティの反応は早かった。発表直後から、構造工学者・建築家・都市計画家が技術的疑問を投げかけた。「これは都市ではない。横倒しのショッピングモールだ」。「2本の壁の間に都市を作ると、住民は『風景』と呼べるものを永遠に持てない」。「徒歩5分以内のアクセスは、線状都市では数学的に成立する。だが線が長ければ長いほど、両端の住民が出会わない」。

NEOM側は2022年から2024年まで、こうした批判への正面回答を避けた。代わりに視覚的なレンダリング動画を更新し、PR資料の数字を増やした。

一方で、内部では別の数字が動いていた。

2023年に作成された取締役会向け草案資料(後にWSJが入手)は、170km完成までの所要期間を55年(2080年)と試算した。総コストは8.8兆ドル。これは2021年の公表値1.6兆ドルの5.5倍。サウジアラビアの年間国家予算の25倍に相当する。フェーズ1(2035年までの部分)だけでも3,700億ドル。

公表数字と内部試算の乖離は、2022年から2024年の2年間で内部的に拡大していた。皇太子のビジョンとして公表された数字を、設計部隊が現実の単価で組み直すと、5.5倍の予算になる。組織はこの差を上層部に上げきれなかった。

Execution:縮小の三段ロケット

2022年4月、着工。とはいえ初期工事の大半はインフラ系の準備で、170kmの構造体本体ではない。整地、道路、ベース基地。本体は2023年から少しずつ立ち上がる。

縮小は2024年4月に始まった。Wall Street JournalとBloombergが、内部資料をもとに「フェーズ1は2.4kmに縮小される」と報道した。サウジ政府は当初否定したが、2024年10月に公式に修正アナウンスを出した。「2030年までに完成するのは中央の5km区画。全体の170kmは2045年。住民数は2030年時点で30万人未満」。

機能要件もほぼすべて後退した。地下を走る高速鉄道、双子のガラス壁構造、世界初の「都市内アリーナ」、屋内スタジアム。発表当初の「世界初」「世界最大」のうち、2024年の修正版に残ったものは少ない。

縮小のタイミングを並べると構造が見える。

2024年4月、外部メディアによる暴露報道。同年9月、Wayne BorgらNEOM Media Industries幹部に対する人種差別・不適切言動の告発(WSJ、複数の音声記録)。同年10月、サウジ政府が縮小を公式承認。2025年9月、PIFが建設を一時停止。2026年4月、PIFが「優先順位を再編、AIインフラ・AI企業投資にシフト」と発表。2026年5月、Semaforが「The Lineの作業は2030年以降まで停止」と報道。

外部報道が政府を動かし、政府が組織を動かし、組織が予算を動かした。情報の流れが下から上にではなく、外から内に向かったプロジェクトだった。

支出側の数字も並べておく。NEOM全体への投入額は2025年2月時点で500億ドルを超えていた(Dezeen)。170kmのうち実際に建設が進んだのは数km。Vision 2030全体の建設現場では、ILOや人権団体の集計で21,000人の労働者死亡が報告されている(2024年公開のドキュメンタリー)。プロジェクトの透明性は最後まで低く、サウジ政府は数字の確認を拒否している。

そして人権。

The LineおよびNEOMの建設予定地には、フワイタート族と呼ばれる先住部族が代々暮らしてきた。2020年4月、43歳のアブドゥル・ラヒム・アル・フワイティは、強制立ち退きを拒否する動画をSNSに投稿した。その翌朝、特殊部隊が彼の家を包囲し、銃撃戦の末に殺害された。サウジ政府は彼が発砲したと主張した。家族と人権団体は反論している。

その後、フワイタート族の少なくとも47人が逮捕された。15人は15年から50年の懲役、5人に対しては死刑が求刑された。罪状はテロ防止法違反。実際の発端は土地強制収用への抗議だった。国連人権専門家は2023年5月に声明を出した。「これらの3名の差し迫った処刑に深い懸念を表明する。彼らはNEOMプロジェクトのための強制立ち退きに抵抗したことで逮捕された」。

NEOMに参画する外国コンサル企業(McKinsey、Boston Consulting、Bechtelなど)への問い合わせに、企業側はおおむね沈黙を選んだ。

People:構想者ひとりが起点で、構想者ひとりに集中する

ムハンマド・ビン・サルマン皇太子は1985年8月生まれ。2017年6月に皇太子に就任した時点で31歳。Vision 2030もNEOMもThe Lineも、すべて彼の個人的なビジョンとして始まった。サウジアラビアの王政では、構想者と決裁者と最終責任者が一致しうる。彼の場合、3つすべてが彼自身だった。

これは速さを生む。2017年のNEOM発表から2021年のThe Line発表まで4年。同じ期間に欧米の都市開発が進める意思決定プロセスを考えれば、桁違いに早い。代償は別の場所に出た。誰も「下方修正を発議する権限」を持たない。皇太子が言わなければ、縮小は起きない。

ヤシール・アル・ルマイヤン。PIF総裁。皇太子の構想を財務面で支える人物。サウジ国営石油会社Aramcoの会長を兼ねる。2026年4月、PIFの2026-2030戦略アップデートで「優先順位を再編した。投資目的をAIインフラとAI企業への投資に重点化する」と発言した。The Lineを名指しせず、構想の縮小を実質的に発表したコミュニケーションだった。

NEOM側の経営陣には、海外からの招聘者が多かった。Wayne Borgはオーストラリア出身の元映画業界幹部。Fox、Universal、Walt Disney Companyを経てNEOM Media Industriesのマネージングディレクターに就いた。2024年9月、Wall Street Journalが彼の人種差別的発言を含む複数の音声記録を報じた。NEOMは内部調査を発表したが、その後の処分内容は公開されていない。

組織文化の劣化と、プロジェクトの構造的破綻は別の現象だが、人材の定着には同時に効く。重い縮小判断が出る前から、シニア人材の入れ替わりは続いていた。

アブドゥル・ラヒム・アル・フワイティに関しては、本人の言葉が短い動画として残っている。「私は売らない。これは私の父の土地、私の祖父の土地だ。彼らは私を脅すために来ている。だが私はここにいる」。彼が殺害される前夜の動画。同じ動画の中で、彼は自分の住所を読み上げている。

プロジェクトの「People」には、3つの層があった。構想する皇太子。実装する外国人マネジメント。立ち退かされる住民。3層のうち、最後の層だけが声を持たなかった。

Legacy:「絵」が「設計」より先に発表されたプロジェクトの行方

2026年6月の時点で、The Lineは技術的には未完成、政治的には縮小済み、財政的には停止状態にある。

何が残ったか。

第一に、「Sindalah」と「Trojena」など、NEOM内の他プロジェクトのうち実物が動き始めたものがある。Sindalahは2024年10月に開業したヨット・ゴルフリゾート。86バースのマリーナ、75オフショアブイ、複数のホテル。観光地化プロジェクトとしては形になっている。ただし規模はThe Lineの数十分の一。

第二に、Vision 2030全体としてのサウジアラビアの観光産業は実際に伸びた。2019年のサウジ観光ビザ発給開始から、国際観光客は2024年に約3,000万人へ拡大した(サウジ観光省)。経済の脱石油という上位目標は、The Lineの成否とは別に進んでいる。

第三に、サウジアラビアの財政体力そのものへの懸念。500億ドル超の支出に対して、形として動いているのは小規模リゾートと整地済みの土地。PIFの投資ポートフォリオには、Lucid Motors、Newcastle United、各種国際投資が含まれる。これらが想定通り収益化しなければ、The Lineへの追加投資は構造的に難しくなる。

そして、PRレベルで残ったもの。

「170kmの直線都市」という概念は、技術的に成立するかどうかとは別の次元で、世界中で言及される構想になった。マスダールシティが17年かけて辿った道(公表→縮小→「失敗」評価→技術の部分輸出)を、The Lineは5年で辿った。スピードは「失敗の」スピードだった。失敗の早期化は失敗ではない。長期的に見れば、より早く現実に着地したプロジェクトは、より低いコストで撤退できる。8.8兆ドルが内部試算として出てきた段階で、構想を縮小するのは「賢明な撤退」と評価される可能性がある。

ただしこの評価は、立ち退きで命を失った住民、収監されたままの抵抗者、死亡した労働者には届かない。

サウジアラビアは、隣接する別のメガプロジェクト「The Mukaab」(リヤドの正方体型超高層構造体)でも同じ構造を繰り返している。象徴的な単一構造物、皇太子の個人的構想、PRレンダリング先行、内部試算の不透明。The Lineで学ばれた教訓が、次のプロジェクトに引き継がれるかどうかは、別の話になる。

学び:象徴を約束したプロジェクトは、なぜ撤退できないか

The Lineが示しているのは、「象徴的に大きい構想は、現実に着地するときに何倍ものコストを払う」という構造だ。

900万人。170km。500m。1.6兆ドル。これらの数字は、技術的検証から導かれた数字ではなかった。「ポスト石油時代の象徴」として機能する数字として選ばれた。象徴的な数字は、PRとしては強い。投資家を引き付け、メディアの関心を集め、外国政府との交渉カードになる。Vision 2030という国家戦略全体のショーケースとして機能する。

代償は2つの方向に届く。

第一に、内部試算と公表数字の乖離。象徴的な数字をいったん公表すると、内部の現実的な見積もりが上層部に届きにくくなる。技術部門が「3,700億ドル必要です」と試算しても、公表数字「500億ドル」を覆す根拠としては政治的に受け入れがたい。WSJが入手した2023年内部資料が示しているのは、組織内部ですら現実的な数字が共有されていなかったことだ。乖離は時間とともに拡大した。8.8兆ドルという数字が漏れたことが、実質的に撤退の引き金になった。

第二に、撤退コスト。象徴的な構想は撤退時のコストも象徴化する。「現実的でなかった」と認めることは「Vision 2030への裏切り」と解釈されかねない。だから縮小は段階的になる。2024年に「全体は2045年へ」、2025年に「建設停止」、2026年に「AIインフラへの再配分」。1回で「中止」と言わず、3段階で実質的な中止に近づく。政治的損失を分散する技法として理解できる。

ここに、マスダールシティとの構造的な共通点がある。マスダールも「ゼロカーボン」という象徴的な目標から始まり、17年かけて段階的に「ローカーボン」「50%」へ縮小した。プロジェクトとしての都市は失敗し、Masdar社という組織だけが残った。

The Lineの行方は、まだ確定していない。

ただし、いまの段階で1つだけ言えることがある。象徴的な目標は、達成されたときは普通の成果に翻訳できない(「ゼロ」を「99%」に書き換えても価値は伝わらない)。達成されなかったときは「失敗」と呼ばれる。象徴は、成功も失敗も自分の言葉で語れない。

ブラジリアは41ヶ月で首都機能を移し、計画外に500万人を抱える都市圏になった。マスダールは17年で5,000人の都市と、世界最大級の再エネ企業になった。The Lineは5年で1.6兆ドルの構想と、内部試算8.8兆ドルと、5kmの工事現場と、収監された47人の住民と、500億ドルの支出になった。

プロジェクトは、構想のサイズで評価されるのではなく、撤退の上手さで評価されることがある。

The Lineの撤退は、まだ続いている。

出典・参考資料

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Project Timeline